■1-1-2.疑心と誠意
「鬱陶しいわねえ!」
コトミヤはオオカミと共に女神と攻防を繰り返していた。女神が水の中に潜り込めばコトミヤは架空空想二つを使って生み出した音の衝撃波を叩き込むことになる。女神に守ることを許さない戦いは、実に、
「いやらしいってのよ、そういうの!」
「……今度はいやらしいと来たか……!」
一方で、コトミヤの守りは低い。オオカミと自身で牽制を繰り返すことによって攻撃の頻度が下がってはいるが、それでも確実に傷は増えていく。
遠くから聞こえてくる歌声はコトミヤたち特異者の力へと変わっていくが、それでも戦い続けるには限界がある。コトミヤの肩は弾み血が滲む。
「いやね。血でわたくしの泉を汚したくはないのだけれど……」
「なら大人しくしていてくれるかな?」
「それは死んでもごめんよ!」
どこまでもつれない女神に苦笑を漏らすコトミヤ。明確に女神へ攻撃を加える者が彼しか居ない以上、最早押し返すことは難しい。
――ここまでか。
観念して女神の牙を受け入れようと足を止めるコトミヤ。せめてオオカミによるカウンターが出来れば、と。
しかしそうはならなかった。何かが泉に落ちる水音が響いたところで、女神の動きが止まる。
「これは……」
泉の女神。彼女もまた運命の筋書きに囚われているならば、物語をなぞることを無視できない。
「まさか泉にナイフを落とす男が居るなんてね」
それは狩猟の際に用いるような小ぶりなナイフだった。枝を切り小さな獣ならば解体できるような頑健な作りのナイフ。
「あなたが落としたのはこの金のナイフかしら? それともこちらの銀のナイフ?」
落とし主は
ジェノ・サリス。もちろん、偶然落ちてしまったのではなくわざと落としたもの。ジェノは一つ咳払いすると、優雅に一礼しながら、
「落としたのは、ナチュラルナイフです。自慢の料理に使う物なのです」
と、その所作に違わぬ美しい声で告げた。
「わたくしより家事が出来るという嫌味かしら?」
「とんでもない。俺はただあんたのために料理を振る舞いたいってだけさ」
ジェノは、つまらなそうな顔で投げ返されたナイフを受け取ると鮮やかな手付きで調理を進める。準備は万端、まるでスポットライトに照らされたかのように注目を集める彼は、あっという間にまたたく間にカレーを作り終えた。
カレーの魔術師と人は呼ぶ。香ばしい香りは食欲を誘い、思わず女神もそれを口へと運んでしまう。
女神のために作ったという男の言葉に嘘は無い。その完成度に思わず女神は眉を顰め悔しげな顔を浮かべる。その顔はカレーについての完成度を何よりも雄弁に物語っていた。
「くっ……なんなのよあんたたち。本当に戦う気があるわけ?」
自分の予想だにしない展開にどこか苛立たしげな泉の女神は思わず悪態をつく。そんな彼女の鼻を、カレーだけではなく別の香りがくすぐった。
「……この匂い」
それには覚えがある。最初に彼女が食べた料理、あのスープストックの香りだ。打算無き想いを伝える一品、それを改めて小十郎が持ってきたのだ。
「落とし物は届いただろうか? ……これが、私達の気持ちだ。改めて一杯、飲んでくれないか?」
泉の女神の表情はいかにも忌々しげだ。しかしそれを跳ね除けようとはせず、そのスープに口をつけた。
「憎たらしいぐらいにおいしいわね。スープも、カレーも」
小十郎やジェノの想いが伝わっているかは分からない。だがこの瞬間、確かに泉の女神が誰かに襲いかかることはなかった。
「女神。……君は、」
コトヤマが言葉を続けようとした瞬間、その言葉を遮るように手を突き出す。
「勘違いしないでちょうだい。そのオオカミをわたしに近づけたらぶっ殺すわよ」
おそらくこの蓮っ葉な口調こそ彼女の“素”なのだろう。大きくため息をつきながら彼女は言葉を続ける。
「でもこの場は静観してあげる。さっきから聞こえてくる、かわいらしい歌に免じて、ね」
彼女のダメージは大きくはない。今無理にオオカミをけしかけたところで腹から食い破られるのがオチだろう。それでも特異者たちは、彼女から大きな妥協を引き出すことに成功したのだった。
彼らは口々に女神へ感謝を述べ、
「男ってかっこつけたがりよね。……ふん、面白くないわ!」
泉の女神は最後にそう悪態をついて水の中に消えていった。