09.情動に誠実であれ
「うぅぅ、やめるのじゃ」
ダンピールは腕の中で震える小さな獲物――悪魔の力を失った魔人の少女を嘲笑う。首筋に顔を寄せるとびくりと肩が跳ねた。
勇ましく神官騎士を名乗っていたが口程にもない。
「我は、我はっ……ああっ」
本能の導くままに乙女の柔肌に牙を突き立てた。
ああ、神魔を同時に冒涜するという所業、なんと甘美なものか。
しかし血の味が薄い――いや、牙が突き立たない。それどころかダンピールの証たる鋭く尖った犬歯が、そもそも生えていなかった。
突如、頬に痛みが走る。
「目を――じゃ! 戻って――くる――竜一!」
名前を呼ばれてダンピール――
青井 竜一は自分が人間であり、ここがセフィロトではなくマグメルであることを思い出す。
記憶が途切れる直前に何があったのか考えようとして、
「火を使うのじゃ!」
リリムローズ・サファイアブレスの指示に反射的に従って、アダマンロッドの先端に【ブレイズソード】で炎の刃を生み出した。
霞がかっていた意識が一気に晴れ渡っていく。
「どうやら幻覚から無事に抜け出せたようじゃな」
「なるほど、快楽を上書きしたのか」
竜一の囚われた妄想世界は、リリムローズの【サイケデリック】とヘヴンスライムの催淫効果が合わさった幻覚だった。これまでにヘヴンスライムが引き起こしてきた光景に比べて耽美な絵面になっていたのは術者が要因だ。
あの時――隠し棚の罠でヘヴンスライムの気化した粘液を吸ってしまったリリムローズだったが、神官騎士の能力で催淫効果に耐えることができた。しかし部屋中に広がっていく蒸気の中では耐え続けることはできない。リリムローズは催淫効果を毒で上書きする賭けに出た。
幻覚の内容に快楽要素は混じってしまったが、催淫効果による暴走は幻覚に押し留められた。痛覚の刺激で意識を覚醒させると、こうしてヘヴンスライムを完全に払うことができた。
(……あやうく墜ちるところだったのう)
分からせと略奪。
出逢いの衝撃を美化するような幻覚に、リリムローズは頬が緩みそうになるのを堪えながら首筋を撫でる。そこには薄く歯形が残っていた。
その横で竜一は「ロリ属性のない自分をその道に引きずり込もうとするとは、ヘヴンスライム、なんて恐ろしいのか」などと戦慄していた。
悲しい擦れ違いである。
ゴーレムの感じる快楽と、他の種族の快楽が同じなのかとラメーダに訊く予定だったが、ヘヴンスライムの効果を受けてみて、同一かどうかはともかく、ヒトの快楽をよく知っているのは理解できた。
「……それで、見付けた資料は?」
「手遅れじゃ」
書類や研究資料はヘヴンスライムの餌食になっていた。明らかにヒトよりも優先して書類などを溶かしている。どうやら指向性を与えられるようだ。これもまたヘヴンスライムの研究成果の一つなのかもしれないが、それを知る術は失われてしまった。
* * *
実験室で繰り広げられる来訪者と信徒の戦いは膠着状態に陥っていた。
劣勢を覆すことはできたが、反撃に出るには一手足りない。
どちらかに増援が現れれば一気に戦況は傾くだろう――まるでそれを予期したかのようなタイミングで、大釜の蓋が吹っ飛んだ。
ずるずると全裸の男が這い出てくる。
「ハァハァ……ハァハァ……」
ウィン・チェスターは全身に粘液を纏ったスライムマンとして復活を果たした。
「ラメーダたん、お待たせして申し訳ありませんぞ!」
催淫効果のある粘液にどっぷりと浸かっていた筈なのに正気を保っていた。でも考えてみると最初から正気には見えなかったので変わっていないだけかもしれない。分からないので報告書を読んだ者に判断を任せることにする。
ウィンは駆けた。その身に纏う粘液を撒き散らしながら。
敵味方関係なく平等に快楽が牙を剥く。もはや混沌が戦場を支配した。
「ああ、あああ……」
ラメーダは危なげなくウィンの飛び付きを回避しているが、精神的なダメージは積み重なっていた。
「この絶好の機会を無駄にはしないぞ」
春夏秋冬 日向は天技【霊眼】を発動した。
これまで動きの癖など弱点になる要素を巧みに隠していたが、今のラメーダにその余裕はない。強化された視覚で徹底的に観察して弱点を暴き出すチャンスだった。
張り巡らせた鎖を足場にして飛び回り、ラメーダの姿を四方八方から確認する。
予め散布していた『バードライムトラップ』もあって、ラメーダは自由に動き回れずにいた。
「邪魔はさせません」
七々扇 静音は日向がラメーダの観察に集中できるように、周囲の信徒をまとめて相手取る。
「まだここからです」
これまでの戦いの消耗を回復するため【ダブルヒール】で仲間もまとめて治癒した。
出力の落ちていた炎の剣を再び力強く燃え上がる。
背後から放たれた風刃には目を向けない。風除けの加護と簡易結界に防御は任せて、目の前の信徒に斬り掛かった。
LV7の炎は打ち合った信徒の剣を溶断する。
鎧まで届いた刃に怯える顔と目が合って、杖の石突で腹部を強く打ち付けて倒れ込ませた。
静音は足を止めずに振り返る。
背後から魔法を放ってきたメイジが次の魔法を発動しようと杖を構えている。距離を詰める時間はなさそうだ――冷静に判断して、静音は懐に手を伸ばした。
「どう対処しますか?」
静音は小瓶をメイジに向かって投擲した。
これまでの戦闘で信徒が小瓶を投げ付けてくることがあった。小瓶の中身を学者の博識によって見抜いたことで防御ではなく回避を選んだが、もしも装備で受けていたらと思うとぞっとする。
信徒は小瓶を投げ付けられた時、自分達の使う武器――ヘヴンスライムの小瓶をどうしても意識してしまうだろう。それを逆手に取って、投げたのは色味の似ている『魔力活性薬』だった。
可能性は低くとも万が一を考えてしまい、メイジは大きく隙を晒した。
「隅っこで寝ていてもらいますわ!」
松永 焔子の【フリーズブリーズ】が隙を晒したメイジの体を凍り付かせる。両足の自由を奪われて藻掻くこともできないメイジの手から杖を蹴り飛ばして抵抗する術を奪い取った。
次々と信徒が倒されたせいで焦ったのかラメーダが強引な反撃に出た。追い回してくるウィンを誘導して再び大釜に沈めようとする。
ウィンが稼いでくれた時間を使って、日向はラメーダを観察して得られた情報を静音と焔子に共有した。
ビチャリと床に粘液が跳ねる。
二つ目の大釜の蓋が開かれて、ウィンがまた沈められていた。
最初に落ちた粘液よりも粘性が高く、流石のウィンもすぐには這い出してこなかった。大釜の中から怪しい笑い声は聞こえてくるのでまだまだ余裕そうだ。
「私はまだ天楽快の使命を果たさなくてはなりません」
ラメーダは短剣を手放すと、両手を組んで祈りを捧げる。
遂にラメーダとの決着をつける時が来た。
ラメーダは正面から突っ込んでくる。日向は器用な手捌きで鎖を展開して拘束しようとするが、想定を超える速度で躱されていく。
「どういうことだ!?」
日向は驚愕に目を剥いた。思わず鎖を操作する手元が狂ってしまう。
万全の状態よりも動きが鋭い。それに先程までは感じられなかった必死さが表情からも伝わってくる。
しかし原因を考えている時間はなかった。
ラメーダの狙いはこちらへの攻撃ではなく、明らかにこの場からの逃亡だ。
「逃げ道も塞いで、装備を焼いてすっぽんぽんにすれば全部解決ですわ!」
焔子は天技【ワールドイズマイン】によって自らの限界を超えて集まった魔力を一つの魔法に注ぎ込んだ。
本来よりも巨大で強力な【フレイムウォール】がラメーダの前に立ち塞がった。
「決して逃がしはしませんわ!」
焔子の想いに呼応するように炎の壁は、生物的な形を取り始める。
天技の極大化によって神獣――鮫の形になった。えっ、サメ?
遂にヘヴンスライムでGMまで頭が可笑しくなったんじゃないか、と思った皆様はどうか怒りを抑えてほしい。
天技を使って火属性魔法を強化したら鮫の形になって家の中で暴れ出した、という状況になった理由を論理的に説明をする準備があるので、もう少々お待ち頂きたい。
意味不明な状況の中で、静音は冷静だった。
自分の中に妙な感情が芽生えている。
「ヒト種族を助けたい意志は尊重しましょう。ですが貴方達の目指す未来に浮かぶ笑顔は本物と呼べるでしょうか?」
心のどこかでは思っていても決して口に出すつもりのなかった言葉が不意に口を衝く。
端的に言えば感情が抑え込めないのだ。
「……未知の攻撃を受けている?」
その正体を確かめるために、静音は天技【五行展開】を発動した。
「やはり何かが作用しているようですね。皆さん、どうか冷静な行動を取ってください。この力は、私達の感情を操作しています」
ラメーダを中心に魔力が全員に流れ込んできていた。
不可思議で絶対的な力、これは間違いなくラメーダの天技によるものだ。レベル差があるのか、静音の天技をもってしても詳細な分析はできなかった。
「感情を操作……手元が狂ったのもそれが原因のようだな」
日向の中にある焦燥感が抑え付けようとしても膨れ上がってしまう。
逆にラメーダが強化されたのは逃げることに必死になっているからだ。そのためにリミッターが外れて実力以上の力を発揮している。
「サメは私の感情を引っ張り出した結果……?」
焔子のラメーダを決して逃さないという想いを体現した存在こそがサメだった。
神獣の明確な定義がされていない状態でラメーダの天技の影響による感情の爆発で拡大解釈が発生して、主役以外は容赦無く喰らい尽くす絶対捕食者概念がサメの形を取ったのだ。一体どういうことなんだ。お前初めてかZ級は? なあ? 力抜けよ。百歩譲って家の中に鮫が現れるのは論外とか常識を語のはやめよう。クラファンで目標金額を1150%越えした超名作があるんだからハウスにシャークが出ても何も問題ないだろう。なんで私のリアクションで二度も語られているんですかねこの映画。
誰もが納得する理屈を語ったところで、ラメーダは決死の覚悟でサメに突っ込んだ。果たしてクソCGの描画位置がズレていたのか、天の采配で主役判定されてしまったのか――ラメーダは炎の壁を突破した。
「逃がしはしませんわ!」
焔子の意志に従い、炎のサメが更に膨れ上がる。
すべてを燃やし尽くす勢いだった。
「なんだこの炎は!?」
別室を調査していた竜一がリリムローズを連れてやってきて、偶然にもラメーダの道を塞いだ。
来訪者に追われて必死に逃げようとする天楽快の信徒――状況判断は一瞬だった。
「リリムローズ!」
「我に任せるのじゃ!」
天技【縛鎖の魔眼】によって、ラメーダの全身は鎖が絡み付いたように鈍く――ならない。天技のレベル差でラメーダが自分自身に植え付けた逃亡の意志が体の束縛を拒絶したのだ。
竜一が追撃に放とうとした天技は間に合わず、ラメーダは研究所の外へと出ていってしまった。
「ラメーダたん! 待ってほしいですぞ!」
続けて粘液塗れのウィンがラメーダを追って出ていったが、誰も呼び止める暇はなかった。
「それよりも脱出だ! このままじゃ焼け死ぬぞ!」
日向の切迫感のある呼び掛けで、来訪者達はそれぞれに床に倒れ込んだ信徒を担ぎ上げて研究所を脱出する。
不幸中の幸いであったのは、丘の上で他の家屋から離れており、降り注ぐ雨のお陰で、村まで延焼することはなさそうだということだ。ただ研究所にあった資料などはこれで完全に燃え尽きてしまうだろう。
「嫌な事件でしたわね」
最後に出てきた焔子は良い感じの台詞で締める。
誤魔化そうとしているぞ、とツッコミを入れる余裕は誰にもなかった。
ラメーダは取り逃がしてしまったが、一先ずヘヴンスライムの実験は止められた。これである程度は天楽快の計画は妨害できただろう。その成果を噛み締めて今は少しだけ休みたかった。