ピラーの麓にて
人工神格レーゲルが座する軌道エレベータ”ピラー”は、レーベンス大陸中央山脈の盆地にそびえ立っている。その麓には、建設の為に資材や要員が集中し、それらの需要を満たす為の様々な一般人もまた訪れ、ひとつのブームタウンを形成していた。
「周囲を見ても山ばかりね……こういう場所でこそ、闇商人もしようがあるってわけか」
アイーシャ・ガウルは、ピラー建設本部の最上階、司令官公室から周囲を見回し、そのように呟いた。
「待て、なんでお前がここにいるんだ。疫病神めとっとと帰れ」
新任のピラー建設本部司令官、カミンスキー少将――彼はウランカ失陥の廉で少将に降格されていたが、その卓越した事務能力を認められてピラー建設本部司令官に就任していた――が渋い顔をしてアイーシャに告げる。
「いいじゃないの、貴方の私財は半分返したんだし、これからも良い付き合いを願ってるわ」
カミンスキーはますます渋い顔をした。
「脱出に力を貸してくれたことには感謝している。だが法外なタクシー代だったぞ!? ワシの老後の蓄えをどうしてくれるつもりだ!」
「勿論、自分が生きていく為の商売に使うわよ。安心なさい。私は貴方ほど強欲ではないわ。ウランカの時同様に、便宜を図ってくれればいいだけ。払った金は命の代金、また稼げると前向きに考えたほうがいいわよ」
しれっとアイーシャが告げると、カミンスキーは難しい顔をして沈黙する。
「まあそんな難しい顔はしなさんな。相身互いと行こうじゃない」
「……気に入らんが、そういう事なのだろうな。まあいい。ここで商売をする為の便宜は図ってやる。だからとっとと出て行け」
「その前に」
アイーシャはカミンスキーにウォトカのショットグラスを渡した。もちろん自分のグラスも用意してある。
「お互いの未来に乾杯と行こうじゃない?」
アイーシャがなみなみと継いだウォトカを、彼女は得意満面に、カミンスキーは苦い顔をして飲み下した。
胸を焼く熱いアルコールに、アイーシャは軽い酩酊感を覚えつつ、ウランカで出会った人々の無事を祈るのだった。
★
移動キッチン”シャングリラ”の面々は、パルチザン組織”ポラニア国内軍”に協力する形で、ピラーの麓にあるブームタウンへと潜入していた。
「ここに来れば、戦争と神との考え方、国の統治の考え方の違いで不幸にも2分されているポラニアとフリートラントの現状を打破出来る道が見つかるかもしれない……」
皇后崎 皐月は天にそびえ立つピラーを見上げて、そのように想った。統一戦争の原因であるピラーの周りには、様々な想いが交錯するであろう。それを見極める事が、今の自分に出来る、いややらなければならない事と、彼女は感じていた。
とはいえ、ここはフリートラント領。ポラニア国内軍の積極的な助けを借りられる場所ではない。一応、潜入しているポラニア国内軍のメンバーは存在し、その他難民となって流入してきたポラニア人コミュニティはあるが、ウランカで活動するより難易度は遥かに高い。当面は、この地に馴染む事が重要であった。
というわけで、”シャングリラ”は通常営業をブームタウンで始めたのである。皐月は
呉範・陳に頼んで、多種多様な人々のいるブームタウンで商売が繁盛するよう、多種多様なメニューを用意してもらった。フリートラント、ポラニアだけでなく、山岳民族の定番メニューまで揃え、さらにはデザートも工夫し、この世界の外の料理も用意する。
「これは大変アルネ。でもやりがいアルヨ」
呉範はその腕を振るい、出来るだけ美味しい料理を客に提供することに貢献しつつ、まかないも工夫したり、”シャングリラ”スタッフのつまみ食いに対応する為多めに作るなど細やかな配慮を見せていた。
結果として、”シャングリラ”はウランカに続きブームタウンでも大繁盛したのである。
「アイヤー、撤退戦の時も忙しかたけどここでも忙しいヨ」
呉範は嬉しい悲鳴を上げて中華鍋を振るっていた。
そんな中、ブームタウンに落ち着くまでの道々で得た情報とコネは彼女達の行動に役立っていた。
「あなたの意中の人、ティンメルマン大佐だけど、少将に昇進して特殊部隊を引き続き指揮することになっているみたいよ。ロト1の方は無事。このブームタウンの守備隊に編入されたみたい」
桑子・浅間が得た情報は貴重な物だった。彼女はフリートラント軍傷病兵の撤退路を野戦憲兵に協力して啓開する事で、フリートラント軍の信頼を得、彼らから情報を引き出す事に成功していたのである。
「実際の部隊配置はどうなっているの?」
「リーガ・ダムとウランカの次は、ピラーが攻略されると想ってるみたい。精鋭部隊が続々集結してるわよ。だけど数は大したことないわね。南北方面軍の壊滅で、量を確保できないらしいわね――噂では、粗製トランスヒューマンと新型歩行戦車で、量より質の態勢にシフトするって聞いたわ」
桑子の言葉に、皐月は眉をひそめる。粗製トランスヒューマンとは、もともとトランスヒューマン用に調整されていない素体――一般人を無理やり調整しトランスヒューマンに改造するものである。その成功確率は低く、また、脳神経細胞の柔軟性から、思春期までの少年少女達が素体となり易い。控えめに言って非人道的であり、同時にフリートラントが置かれた窮地を如実に表していた。
「それはひどいわね――って、意中の人ってどういうことよ。あの人はそういうんじゃないってば」
皐月が聞き捨てならないと桑子に抗議すると。
「判ってる判ってる。そういうのじゃないんでしょ?」
からかうように応えられ、皐月は顔を真赤にする。
「だから!」
「いいのいいの。お姉さんは判ってるんだから」
手を振りながら桑子は背を向ける。
「これからデリバリーがあるから、ちょっくらひとっ走りしてくるね! 応援してるわよ!」
「だから、そんなんじゃないってば!」
皐月の抗議もどこ吹く風と、桑子は走り去っていった。ひとり残された皐月は、胸をそっと押さえる。
「――そんなんじゃないのに」
皐月にとって彼は確かに異性としても気になる人物だったが、それより”どうして目こぼしされたのか”ということが気になって仕方がない存在だった。その行動には、彼自身ではなく、彼の背後にある何かしらの存在が関与しているのではないかと想えてならない。それを見極めるのも、自身に課せられた役割と、皐月は想っていた。
そこに、皐月と桑子の話を聞いていた
泉 真理が現れる。
「ロト1さんが無事って本当ですか!?」
突然のことに驚愕しつつも、皐月は真理に向かって平静を装いながら告げる。
「そうみたいね。あの人はポラニアとフリートラントの架け橋になってくれそうだから一安心だわ」
「私……どうしてもロト1さんにもう一度会いたいんです。話したい事がいっぱいあって……」
薄っすらと涙ぐむ真理の頬を皐月は両手でムニッとつかんで。
「だったら、そんな顔してちゃダメでしょ。笑顔笑顔。大丈夫、ここにいるからには必ず会えるわよ」
励ましの言葉を告げると、真理は皐月の頬をムニッと掴み返し。
「皐月さんもあまり難しい顔をしないでくださいね」
と微笑んだ。
「そうね。私達にはやらなきゃならないことが一杯あるんだから」
皐月も笑顔を浮かべ。
「だから、今日1日をきちんと生きて行きましょう」
そのように真理に告げる。
「そうですね……」
頷く真理に。
「そうよ」
皐月は頷いて見せ、そしてカフェテラスへと向かった。
残された真理は複雑な表情をする。
「生きてる間くらい生きてる事だけ考えられればどれだけ楽かな……」
そう呟いた声は、誰にも聞かれることはなかった。
★
デリバリー先へと愛馬”スモール・レッド”を駆って走り行く桑子。その脳裏にはフリートラント軍敗残兵の退路啓開を行っていた時の記憶が蘇る。
「そう言えば、あの時もこうやってこの子を走らせていたっけ……」
傷病兵を満載したトラックの車列を護衛する歩行戦車の群れ、それを追撃するポラニア軍歩行戦車部隊。必然、撤退後衛戦闘が発生する。
遠くで地鳴りのように聞こえる発砲音を聞きながらも、車列の先頭に立ち安全な退路を発見する為、野戦憲兵と組んで偵察に出ていた時、迂回行動を取って退路を遮断しようとしていたポラニア軍の歩行戦車が数両、桑子の前に躍り出た。
びっくりして思わず手綱を引く桑子。急停止により落馬しそうになるがこらえる。ポラニア軍の歩行戦車の赤いサーモセンサーが桑子を捉えた次の瞬間、その歩行戦車が傍らから出現したフリートラントの歩行戦車に狙撃され、力を失って倒れる。
それを呆然と見ていた桑子に、フリートラントの歩行戦車から外部スピーカーで声が掛けられる。
『ここは俺が抑える。戻って新しい道を見つけてくれ』
聞き覚えのある声――ロト1の言葉に、桑子は頷き一散に走り去るが、その際ロト1に対して”必ず生きて帰って”と強く願い、こう告げた。
『ロト1さん、悪いけれどあなたにはまだ死んでもらうわけにはいかないのよ。あなたが死ぬと悲しむ友達がひとりいるからね!』
――そのせいかしらね……今こうしていられるのも、ロト1さんが無事なのも。
ヒトの想いが具現化する世界ならではこその奇跡を感じ、ふと感傷的な気分になる桑子。そこで、彼女は懐かしい姿が視界の隅を過ぎるのを見た。寸時に”スモール・レッド”を止め、声をかける。
「ちょっと! ロト1さんじゃない!?」
声をかけられた男は振り向く。間違いない。ロト1だ。傍らにフリートラント軍の制服を押し着せられた少女を連れている。
「その名で民間人から呼ばれるのは珍しいな……いや、あの時の騎手か」
「どうもお久しぶりです。無事で何よりだったわ」
桑子が挨拶すると、ロト1は言葉を返した。
「君こそ無事で何よりだ。あの時は友軍の車列誘導に協力してくれて感謝している」
「いやいや、私こそ間一髪のところを救けてもらって感謝してるわよ。ところでその子は?」
素直な感謝の言葉を受けると想ってなかったので若干照れながらも、疑問を口にすると。
「その話は君がデリバリーから帰ってきてからにする。いささか込み入った事情があるんだ」
ロト1はそう応えて、”シャングリラ”の方角へと歩んでいった。
「――事情、ねえ」
あの娘はおそらく粗製トランスヒューマンだ。そんな娘を引き連れていたと言う事は、ロト1の部隊も粗製トランスヒューマンによって再編されているのだろうと桑子は想い、戦争という現実の過酷さに思いを巡らしつつも、デリバリー先へと”スモール・レッド”を走らせるのだった。
★
一方、”シャングリラ”では、ロト1が少女を連れてやって来たことで、ちょっとした騒動が起こっていた。
「久しぶりだな。ここでの商売はどうだ?」
ロト1はカフェテラスの1席に座り、少女はその横に座る。
「順調です。それよりその子は?」
皐月が問うと、ロト1は複雑な表情を浮かべた。
「いろいろあって預かっているが、詳しい事情は後で話す。それより、ランチを2人前頼む」
皐月は注文をキッチンの呉範に伝え、呉範は早速料理に取り掛かった。対する真理の方は、少女の存在が気になって仕方がない。見たところ真理より年下、14~15歳程度に見えるが、将来美人になるだろう雰囲気を漂わせた、金髪の儚げな少女だ。
――もしかして、ロト1の”いいひと”?
そんな事を考えてしまうと、不安でしょうがない。彼はそんなヒトではないと想いつつも、彼の優しさをおそらくは一身に浴びているだろう少女にもやもやした想いを抱きそうになる。
そこへ桑子が”スモール・レッド”を駆って帰って来る。ちょうどラストオーダーの時間だったので、皐月達はロト1の座っている場所に集まり、事情を聞いた。呉範がまかないを持ってきたので、ロト1と共に食卓を囲む。呉範謹製の煮込みハンバーグとフルーツパフェに、桑子は眼を輝かしていたが、皐月は冷静にロト1に質問する。
「そのお嬢さんは何者ですか? 連れ子には見えませんが」
「この娘はリーリア・フォルトナー少尉、通称ロト13だ。俺の大隊で預かっている」
ロト1が口を開くと、皐月が呆れたような口調で告げる。
「こんな小さな子がですか? フリートラントも人材不足のようですね」
するとロト1は眉をしかめた。
「北部と南部で散々ポラニアにやられたからな。だが腕は確かだ――キンダーハイム(孤児院)謹製のトランスヒューマンだからな。だが、俺はそれが気に入らない」
「粗製トランスヒューマンを前線に出す非人道性ですか?」
皐月の問いに、ロト1は頷く。
「ああ。こんな小さな娘をトランスヒューマンに仕立てて、前線に出すなんて、人道的にはあってはならないことだ」
「それだけじゃなさそうね。本当はその子を守ってあげたいんじゃないの?」
桑子の問いに、ロト1は再び頷く。
「そうだな。戦争とは言え、俺のせいで彼女が死ぬのは見たくない」
すると、それまで黙々とランチを食べていたリーリアが決意のこもった声で告げた。
「私は闘う為にここにいるから。死んでも悔いはない」
「そう言う考え方はやめろと言ってるんだがな、この調子だ」
ロト1は嘆息する。一方で、真理は胸のもやもやが膨らむ感触を覚える。
「後で、ふたりきりでお話させてもらっていいですか?」
ロト1は少し考える素振りを見せた後、了承した。
★
深夜。営業の終わった”シャングリラ”の近くで、ロト1と真理はふたりきりで会っていた。ただ、ロト1を護衛するようにリーリアが、真理を護衛するように
伊佐坂 八兵衛が周囲を警戒している。
先に口を開いたのは真理だった。
「世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし――もしも世の中に全く桜がなかったなら春を過ごす人の心はどれだけのどかでしょうという意味です。桜がなければ、咲いたかなとか、もう散るのかなとか、思い煩う事もなく穏やかに過ごせたと思います。でも桜はあり、なんとも悩ましい思いを掻き立てます。ロト1さん、私にとって貴方が、その桜なんです」
「俺が、桜?」
不思議そうに呟くロト1に、真理は告げる。
「ロト1さんは、私に生きる意味を教えてくれました。それまで私は生きる意味を持たずただ今日1日を生きるだけの存在でした。それはとても苦しかった。でも、生きる意味を教わったことで、苦しさから抜け出せたけど、別の悩みが生まれてきたんです」
「それは?」
ロト1の問いに、真理はしばらく沈黙し、やがて決心して答えた。
「生きる意味は生きている中で生まれてきます。そこで関わったヒトとの繋がりで生まれ育っていきます。皐月ちゃんも、”シャングリラ”の皆さんも、私の大事な繋がりです。そして――貴方も」
ロト1は少し驚いた顔をした。それに構わず、顔を赤くしながら真理は言葉を継ぐ。
「ヒトの心に残れば生きた証ということなら、貴方の心に私がいてほしいし、私の心に貴方がいて欲しい。生きる意味を教えてくれた貴方のそばにいたい。あの日私の言葉を受け入れ、答えをくれて、その後寄り添ってくれた貴方の傍にいたいんです。だから、名前を教えてほしい。その名前で呼びたいから。私の事も呼び捨てにしてほしい。手も繋いで欲しい。どこまでも付いて行きたい。こういう気持ちを、好きって言うんですよね。だから、はっきり言います。私は貴方が好きなんです」
その告白はぎこちなくとも、真理の本心を表していた。だから、ロト1も誠実に答えた。
「俺の名前は、ヴァルター・マイヤーだ。ヴァルターと呼び捨てにして構わない」
その答えに、真理はぱっと顔を明るくした。
「私の名前は、泉 真理です。真理って呼び捨てにして下さい」
するとロト1は真理の体を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「真理。君の気持ちにどれだけ応えられるか判らないが、精一杯の事はして見せる」
ロト1の熱い胸板の感触を覚えながら、真理はその言葉にうっすら涙ぐんで応えた。
「私もです。ヴァルターさん」
そして真理はロト1の唇を奪った。
その姿を遠くで見守っていた皐月と桑子は、ほっと胸を撫で下ろした。
「お熱いことよね。でも青春の特権よ。あーあ、私もそんな青春送りたかったなぁ」
乗馬学校で馬三昧の青春を送った桑子の言葉に、皐月が応える。
「真理ちゃんの恋愛第1ラウンドは成功ですね。今後も見守ってあげましょう」
皐月としては、ロト1はフリートラントとポラニアの架け橋になりうる人物と見定めての事であったが。
「あなたとティンメルマン大佐の関係も進展するといいわね!」
そのようにからかわれて顔を赤くする。
「だーかーらー、そう言う関係じゃないです! そもそも次どこで会えるか判らないのに」
「またまたぁ。ティンメルマン大佐を追っかけてブームタウンまで来たんでしょ。お姉さんは判ってるんだから」
「いい加減にしてー!」
皐月は散々イジられて悲鳴を上げた。
そして夜は更けていく――様々な想いを抱く人々を覆うように。
★
八兵衛はブームタウンで情報収集にあたっていた。”シャングリラ”では一番若く、何でも屋的ポジションに居る彼だが、傷つき倒れていた所を拾ってもらった恩義に応える為、皐月の依頼に従順に従っていたのである。
「へぇ、これが新型歩行戦車か」
八兵衛はロト1が指揮する第201重歩行戦車大隊の駐屯地を警備する歩行戦車を見てそう呟いた。全体に鋭角的なフォルムの、胸の傾斜装甲が強い印象を与えるそれは、フリートラント軍のLfPz5”トリメンデス”だ。腕に握っているビームバズーカと相まって、いかにも逞しい闘士と言った風体である。
「数は推定30機。前の戦いでほとんど全滅状態だったらしいけど、定数回復してるみたいだな」
すると基地の門から金髪の儚げな少女――リーリアと、その仲間らしき少年少女が現れた。お仕着せの軍服でごまかしているが、首の付け根にコネクターらしき物が付いている。
「人数的に、あの子達がこの大隊の主力パイロットみたいだな。粗製トランスヒューマンかあ。一体どんな子達なんだろう?」
そんな疑問を感じながら観察していると、リーリアが八兵衛に近寄ってきた。何事か、と思いお団子を食べながらそしらぬ振りをしていると、少女が八兵衛に告げた。
「ここは軍事区画。あまり近付かないで」
「こりゃ失敬。アンタらが乗ってる新型があんまり格好いいんでつい見惚れちゃったぜ」
八兵衛の答えに、リーリアは少し首をひねる。
「格好いい……判らない」
え、と想う八兵衛。トランスヒューマンは情緒不安定な個体が多いと言うが、フリートラント軍は徹底的に情緒を殺す方向でトランスヒューマンを製造しているのではないかと推測する。
「まあいいや。オレは退散するぜ。でも”シャングリラ”を宜しくな!」
引き際に宣伝をしていく所は、彼も”シャングリラ”店員の自覚が身に付いて来たという事だろう。
その後、八兵衛はブームタウンを散策し、”シャングリラ”の宣伝をしながらごく自然に噂話を聞いていく。
それをまとめると、次のようになった。
――ブームタウンの守備隊はおよそ1個連隊、歩行戦車100両。その大半が”トリメンデス”と”レオM”で、特異者のハイエンドメックともそれなりに戦える性能である事。
――そのパイロットは元からこの地に駐留していたサクセサー数名の他、北部と南部の残存部隊から引き抜かれた寄りすぐりのサクセサー、そして粗製トランスヒューマンで、技量や能力的にも特異者のレベルに近づいた精鋭である事。
――ブームタウンは軌道エレベータ建設で賑わっているが、次の戦場になる事を市民たちは恐れている事。
――当然ながら、”グロム”の攻撃に対しても恐怖を抱いている事。
――ポラニア難民や山岳民族、一部のフリートラント人は、”ピラー”の建設や戦争に対して不信感を持っており、そのせいかレジスタンス運動が彼らの間で形成されている事。
――それに対し、”ピラー”守備隊司令官ショルツ少将は断固たる態度で取り締まりを行っている事。
このような情報を収集し、八兵衛は”シャングリラ”に帰還し、皐月に報告する。皐月はその情報を受け取ると、お礼代わりに八兵衛にお団子を渡した。
八兵衛はお団子を食べながら、”ピラー”の威容を見上げ、ふと呟く。
「そう言えば、世界を束ねる法則が破綻して、新しく神を創造して法則を委ねようとしてる人達いたみたい。でも世界を束ねる法則がないとなぜ滅びるのかが判らないなあ」
★
その頃、アイーシャの商売は順調に進んでいた。ブームタウンだけあって景気も良く、取引はフリートラントの正規通貨マルク立てが多い。彼女はカミンスキーから奪った私財を元手にしてブームタウン各地の飲食店に食料や酒類を卸し、それにより結構な財産を築き上げつつあった。ただ、ポラニア軍兵站部局が大幅に改組された為、軍の横流し品を扱うことは困難になり、闇商人の民間ネットワークを主に利用する事になっていた。
アイーシャは山岳民族とも取引をし、彼等から家畜を買い取り代わりに山岳民族の欲する生活必需品を売る事で、彼等とも良好な関係を築いていた。さらには、レジスタンス運動にすら物資を売りさばいている。カミンスキーが聞いたら卒倒するだろう。
勿論、アイーシャは”シャングリラ”にも食料品や酒類の卸しを行っていた。彼女は経営者の皐月がウランカで抱えた大量の軍票を快く商品と交換し、皐月から感謝された。
「紙屑同然の軍票で取引してくれる卸業者は貴方だけですから、本当に助かります」
「良いのよ。持ちつ持たれつで行こうじゃない」
アイーシャは軍票の換金ルートもカミンスキーを通じて確立していたが、かと言って恩を売る訳でもなく、ただ”シャングリラ”との親密度を上げる事を目的としていた。
そして、”シャングリラ”と言えば、アイーシャにとっても気になる人物、ロト1との接点である。彼女は”シャングリラ”に頻繁に出入りしつつ、接触の機会を待った。
そして、その日が訪れたのである。
「君か。こんな所まで商売に来るとは、商魂が逞しいというか、冒険心が強いというか、少し悩むな」
ロト1はアイーシャの顔を覚えていた。アイーシャは応える。
「こちらこそ、貴方が無事で本当に良かったわ」
「だが、多くの戦友を失った。彼らは俺の中で想い出として生きているが、それでも新しい記憶を刻んでいくことが出来ないのは寂しい物だ」
ロト1の応えに、アイーシャは十字を切り、戦友たちの鎮魂を祈った。
「――君が俺の戦友の為に祈ってくれるのは2度目だな」
「他人事じゃないからね」
アイーシャはかつてある国のクーデターに参加し、多くの仲間を失った経験がある。失敗したクーデターと鎮圧軍の執拗な追跡で、櫛の歯を欠くようにひとり、またひとりと戦友を失って、自分だけがおめおめと生き延びたと言う負い目がある。そんな彼女に取って、戦友とは苦楽をともにした同志でありながら、人生の枷ともなっている。だから、ロト1にはそのような思いはして欲しくないと想えてならない。共に悲しみ、共に思いを馳せる、それにより、彼自身を慰め、自分自身の傷を癒やすと言う動機がそこにはあった。
それを知ってか知らずか、ロト1は沈痛な表情を浮かべ。
「済まない。だが有難う」
と、アイーシャに告げた。
そしてロト1はギターを取り出す。
「今日は少し騒がしくする。済まないがラジオは切ってくれ」
ロト1はギターを掻き鳴らすと、優しい中に何処か哀愁のあるメロディーをかき鳴らした。その曲を、皐月は知っていた。思わず口ずさむと、ロト1が合わせてくる。アイーシャもそれに合わせて歌い始め、ちょっとした合唱会となった。
やがて演奏が終わると、ロト1は恥ずかしそうに告げた。
「君達にまで付き合わせてしまって済まない。だが、嬉しかった」
「――”国境のない世界”、本当にくると良いですね」
「そうね」
皐月とアイーシャが口々に言うと、ロト1は頷く。
「そうありたい物だ――いや、そうして見せる」
その言葉には、短いながらも真意が籠もっていた。
★
スレイ・スプレイグはロト1という人物に興味を持っていた。テルスでは敵と見たら話す舌は持たないと言わんばかりの対手ばかりの中、ここテスタメントでは敵であろうとコミュニケーションを取ろうとする存在がいると言う事が、彼にとって新鮮な事態だったからだ。
彼はポラニア国内軍のヨシップ・ズロブトー将軍に掛け合い、ピラーとブームタウン偵察の口実を得て、皐月達”シャングリラ”の面々と合流しようとした。その間、中部方面軍警備部隊との散発的な交戦はあった物の、それらを、あるいはディメンションカーヴァーで欺瞞して避け、あるいは”ストリークMk-Ⅲ”の威力と自身の技量で蹴散らし、いま、”ストリークMk-Ⅲ”を山岳民族の協力者に預け、ブームタウンに訪れている。
「活気がある街ですが、どこか不安な雰囲気も漂っていますね」
「それは、ブームタウンの直上にある”ピラー”が攻撃を受けようとしているからです。もし攻撃を受けたら、ブームタウンは全滅ですから」
スレイの問いに、皐月は何気なく答える。
「そんな危険な場所に潜入するとは、貴方達も相当肝が座っていますね」
「貴方もご同輩でしょう? スレイさん」
感嘆の意を表すと、そのように答えが返ってくる。言われてみればそれもそうだ。幾らロト1に興味を惹かれたとは言え、考えて見れば随分無茶をした物だと感じてしまう。
「まあ、確かにそうですが――彼と会うにはどうすればいいですか?」
顔繋ぎを頼んだスレイに、皐月は愛想よく答える。
「ここに毎日、ランチかディナーを食べに来ますよ。早ければ今日の夜にでも来るんじゃないですか?」
「ほう」
スレイは皐月達がロト1と親密な関係を気づいていることに驚いたが、それなら話は早い。彼は皐月に”ロト1が店を訪れたら呼んで欲しい”と告げ、ブームタウンを散策した。
天にそびえ立つ”ピラー”の威容は、まさに世界の中心と言うにふさわしいが、その麓に栄えるブームタウンはヒトの営みを写して猥雑だ。人々が活発に行き交い、一生懸命に生きている姿を、スレイは微笑ましく想いつつも、彼らの命運を自分達が壊してしまう可能性について考えを及ぼし、やや暗い気分になる。
「しかし、いずれは攻略しなければならない場所です」
スレイは気を取り直し眼鏡の位置を整えた。
そして黄昏時。皐月から連絡を受けたスレイは、”シャングリラ”に向けて足を運んだ。”シャングリラ”のカフェテラスで食事を取っている、精悍な顔つきと体格の男――隣に金髪の儚げな少女を連れている――を確認し、彼がロト1だと教えられ、同席を申し込む。
「席が足りないものですから。ここに座って宜しいですか?」
「ああ。構わないが」
ロト1はスレイに頷いて見せた。
そこで、スレイは自己紹介する。
「”ポラニア親衛騎士団”の一員、スレイ・スプレイグです」
ロト1はわずかに眉をひそめたが、傍らの少女は無表情にスレイを見つめてくる。
「――挨拶されたからには返事しない訳にはいかないな。俺はフリートラント共和国軍第201重歩行戦車大隊所属、ヴァルター・マイヤー中佐、通称ロト1だ。こちらはリーリア・フォルトナー少尉。通称ロト13だ。宜しく頼む」
その応えに、スレイは真正面から疑問をぶつける。
「敵だと判って、対処しないのですか?」
「君とは命を賭けた闘いをした身だ。これも縁だろう。しかもわざわざ会いに来たんだ、もてなしのひとつもしなければな」
そう言って皐月にワインをオーダーする。ソムリエ代わりの呉範がキッチンから現れて、取って置きの赤ワインをロト1とスレイのグラスに注いだ。
「形式的なことは結構です。私は貴方にひとつだけ忠告しに来ました」
平静を保っていたロト1の表情が再び陰る。
「忠告か。どんな内容だ?」
「私は貴方と闘った時、”護りたいものがあるから闘う”と言いましたね。だったら、そのヒトの側にいて護り続けたほうが良いということです」
「――」
ロト1は沈思黙考した。そこにスレイは言葉を覆い被せる。
「私は愛している女性を護り切る事が出来ませんでした。そのヒトも覚悟があったのでしょうが、残されるヒトの開梱は理解しているつもりです。そのヒトは後に紆余曲折あって蘇りましたが、私が守れなかったと言う事実には代わりありません。貴方が戦場に出続ける以上、死の危険は常にあります。貴方にその覚悟が無いと言う訳ではなく、貴方の死に後悔するヒトがいて、その人を死ねない理由にしているなら、今一度考えてほしいですね」
スレイとしては、衷心からの忠告であった。彼が愛する人を失った時の後悔たるや、いま蘇っているとしても思い出したくもない。そんな気持ちをロト1の周りの人々に与えるのは本意ではない――そう思えるほどに、彼はロト1の事を気にかけていたと言えよう。
しばらくの沈黙の後、口を開いたのはリーリアであった。
「ロト1は死なない。私が護るから」
するとロト1は苦渋の表情を浮かべた。
「そんな事を言わないで欲しい。君には、君の人生がある。せめて死ぬなら、自分の人生の為に死んで欲しいと思っている」
するとリーリアはロト1をまっすぐ見つめて沈黙した。
そしてロト1は答える。
「俺は、君のように一途に人を愛したことはないかもしれない。だが、ヒトの命の連なりが織りなす模様が、未来へと繋がって行く事に意味を見出している。君達に倒された戦友や、今は亡き俺の家族も、俺の中で確かに息づいている。それと同様に、俺の存在も俺を知る人々の心のなかで息づいていると想っている――結果として後悔させることとなったとしても、その繋がりだけは、確かな物と想えてならないんだ。勿論死にたくはない。その積りもない。だが、為すべき事を為さずにいる訳にも行かない」
「――それが、答えですか」
「それだけじゃない。今のままでは、放っておけない娘を近くにおいておくのは却って危険だし、新しく身近に置いた娘も放っておけない。痒い所には手が届かないし、責務ばかりが増える――だが、取りこぼす積りはない」
「なら、私と私の愛した人が造った”ストリークMk-Ⅲ”でお相手しましょう」
その瞬間、殺気が走った。見るとテーブルナイフを構えたリーリアが立ち上がり、スレイの脇腹に向けて体当りしようとしている。スレイがその攻撃を避けようとするのと、ロト1が制止するのは同時だった。
するとリーリアは糸の切れた人形のように倒れ伏した。ロト1が立ち上がり、倒れたリーリアの側にしゃがみ込む。そしてロト1は告げた。
「申し訳ない。部下の不始末だ」
「その娘は――トランスヒューマンですか?」
「ああ。俺に対する忠誠心をインプリンティングされている悲しい娘だ。だが俺には大事な部下だ。俺はこいつを見捨てられない」
「――中途半端な人情と言うのは、時に人を傷つけますよ」
「耳が痛い台詞だな。だが、俺にはこうする他ない」
スレイの台詞に、真摯にロト1は応える。例えそれが迷いの道であろうとも、スレイにはその真摯さだけは十分に伝わった。
「――戦場での再開を心待ちにしています。それでは」
そう言い残して、スレイは去っていくのだった。
★
「へえ、これが”ピラー”ですか……すごいなぁ」
天津 恭司は天高く聳える”ピラー”の威容に圧倒されていた。
「それにしてもにぎやかな街ですね……でもここに来るハメになるとはなぁ……」
恭司は溜息を付いた。
彼がブームタウンにいるのは過去に遡り事情を説明する必要がある。彼はフリートラント首都イエナでフリートラント国内の反戦派と繋ぎを取る為、屋台を営みながら噂話などヒントになる情報をかき集め、どうにかフリートラント民主化・反戦運動グループ「青薔薇」と言う組織がある事を突き止めた。その指導者クリームヒルト・リューダーと、どうにかこうにか接触する事に成功した恭司は、反戦運動に協力すると申し出た。
クリームヒルトは年の頃20代前半の麗しき女性だったが、恭司に対する態度は若干辛辣な物だった。
「流石にイエナで”戦場に響く声”を使って人々を説得しようと言うのは無理がありましたね。と言うか無謀です。よく今まで捕まらなかった物ですね」
「いやあ、それなりに戦闘経験はあるんです。もちろんパイロットとしても」
「あまり自分の力を過信しすぎるのは良くない兆候です。戦場に不死身のエースなど存在しないのですから、もっと慎重に行動して下さい」
恭司の応えを諫めるようにクリームヒルトが告げた後、彼女は恭司に提案をした。
「私の兄、フランツ・リューダーは人口神格レーゲルが座する”ピラー”の麓のブームタウンでレジスタンス運動に参加しています。ニューロエイジとしての貴方の才能を、彼の為に使っては貰えないでしょうか?」
「勿論です! この戦争を止められるのなら何でも協力します!」
恭司の想いのこもった答えに、クリームヒルトは微笑んだ。
「では、よろしくお願い致します」
そのような経緯を経て、恭司は”ピラー”の麓のブームタウンを訪れたのだ。
「よう。兄ちゃん。久しぶりだな」
「その声はケバブ屋のおっちゃん!」
馴染みのある声に振り向くと、そこにはイエナで店を並べた間柄のケバブ屋が屋台でケバブを焼いていた。
「兄ちゃんもブームタウンで商売をするつもりかい? イエナの闇市、取締が強化されてな。ほうほうの体で逃げてきたんだが、結構良い商売ができてる。それより兄ちゃん、腹減ってないか?」
すると恭司のお腹から、ぐぅという音がした。
「お察しのとおりです……」
「ならケバブ食っていきな! 心配するな俺のおごりだ!」
「有難うございます……」
恭司はケバブ屋から差し出されたドネルケバブの串を取り齧り付いた。
そうして空腹を満たすと、恭司はさっそくフランツに接触した。クリームヒルトから、フランツは”シャングリラ”という移動食堂で良く食事を取っているから、そこに行けば会えると教えられていたし、紹介状もある。意気揚々と”シャングリラ”に乗り込んだ恭司は、そこでフランツと出会った。
「君がクリームヒルトの協力者か。歓迎する」
「こちらこそ協力できて光栄です」
挨拶の後、フランツは恭司に提案した。
「早速だが、”ピラー”の奪取に協力してくれないか。具体的にはレジスタンス組織に加わり、いずれ来るポラニア軍の支援を行ってもらう。灯火管制の解除やピラー本部施設へのポラニア軍の誘導、可能ならピラー本部施設への陽動攻撃など、地道だがやる事は多い」
「えぇ……僕は出来るだけ穏健に戦争を終わらせたいんですが……」
渋る恭司に、フランツは確信を込めて告げる。
「この戦争の発端であり、最重要戦略目標の”ピラー”を奪取すれば、フリートラント軍は総力を上げて反攻するだろう。それを撃退して、始めて講和の条件が成立すると私は考えている」
恭司は想う。
――そこまでしないと、戦争が終わらないのか。
それは平和主義的に反戦活動を行おうと言う恭司の姿勢と観測からは遠く離れたものだった。だから、恭司は躊躇する。しかしフランツはそんな恭司に対しても寛容だ。
「嫌なら協力してもらわなくても構わない。だが、私はそれでもやり遂げる積りだ」
果たして、恭司の決断は――。
★
トスタノ・クニベルティは、ピラーへの侵入と人工神格レーゲルのハッキングを試みる為、ブームタウンを訪れていた。山岳民族の質素な暮らしからかけ離れたブームタウンの活気に驚きつつも、それに惑わされることなく、一路ピラーを目指す。
「ふーん、地上の警戒は厳重なように見えて穴があるねぇ。これなら潜入も可能かな?」
ピラー基部、物資搬入エレベータ周辺に展開する歩行戦車と歩兵の布陣を見た所、”グロム”のピラー攻撃宣言による物か、かなりの兵力が集結しているものの統制がやや崩れている。動揺しているのだろう、とトスタノは想い、ならばチャンスは有ると判断した。
「それに、まさか狙われている場所に潜り込もうとする馬鹿がいるとは相手も思ってないだろうね。今こそ動くべき時だよ!」
一人合点し、トスタノは潜入を開始した。
そこで、山岳民の少女――アズラと交わした言葉を思い出す。
『どうしても行くの? 危険を顧みずに? 貴方が天に触れた者としての行動を取ること自体は否定しない。けれど、それは高く危険な道』
『承知の上だよ。だけど、僕は精霊に”世界律の再生をヒトの手で為せる”と確約したからには、ヒトとして、やり遂げなければならないと想っているんだ。それに、”小さき者”にだってこれくらいは出来る事を、精霊達に見せつけてやるんだよ』
『なら、これを』
『お守りかい?』
『そう。微弱だけど精霊の力が宿っている。もし貴方に窮地が訪れた時、それを解き放てば精霊が救けになってくれる』
『有り難く受け取っておくよ。だけど、僕は精霊には頼らない。ヒトの力で成し遂げるこ事にこそ、意味があるからね』
『――そう』
そんな会話を思い出させたペンダント――星の煌きを体現したような宝石を首にぶら下げ、トスタノは光学白衣で姿を隠し、警備部隊の隙を突いてピラー基部に侵入、そしてピラー外壁に蜘蛛爪を突き立て、ボルタリングの要領で外壁を上がっていく。通常の人間には到底不可能な行動だが、トスタノは蜘蛛の変異種であり、その登攀能力は常人の数倍にも及んでいた。
そして、トスタノはピラーの壁面にある点検口からピラー内部へと侵入。停止している貨物エレベータに飛び移り、融合で稼働させてから、一路上空3万6千kmの静止軌道上にある人工神格レーゲルを目指した。急加速で潰れそうになるが、そこは変異種としての頑強さで耐えつつ、貨物エレベータの稼働状況をハッキングで欺瞞するのも忘れない。
「これは長い旅路になりそうだね。だんだん空気も薄くなってきたし寒くなってきた。一度融合状態のまま休眠したほうが良さそうだよ」
トスタノはそう想い、一旦目を閉じた。
そして、数刻を経て目を開け、貨物エレベータから出ると。
「すごい――これがレーゲルから見た宇宙なんだね」
思わず歓声が喉を突いて出る。人工神格レーゲルが座する静止軌道ブロックの外周展覧場からは、青く光るテスタメントが一望出来た。
「ヒトはこれだけの物を作り上げることが出来ると言うのは、精霊達に啖呵を切った僕でもいささか感嘆に値すると言わざるを得ないね……」
だが、その絶景に見惚れている場合ではない。トスタノはすぐに自身の目的を思い出し、人工神格レーゲルの中枢――制御ブロックへと移った。もちろん、メインコンソールが置かれている制御ルームは避け、使用されていない予備制御ルームを目指す。
果たして、それはすぐに見つかった。トスタノは融合でサブコンソールの間に潜伏し、電脳士の技能を生かしてスペシャリストの真髄を用い、人工神格レーゲルの構造を解析する。
すると、不審な点が見つかった。事前情報――純粋な世界率調律器であり、イデアルな秩序を現実に投影するはずのレーゲル中枢部に、人為的な意思が関わり得るバックドアがあらかじめ仕込まれていたのだ。これが真実ならば、そのバックドアを使用した者は人工神格レーゲルを私して偽神とでも呼ぶべき存在になりうるだろう。
「これは”ギルグール”を目指す連中の仕掛けかな? 自分達の都合の良い神を選んで、新しい世界を創造しそこに輪廻転生出来るように布石を打っているのかもしれないね」
勿論、そんなものをトスタノが見逃す訳はない。彼は早速そのバックドアにハッキングを仕掛け、万が一その機能を誰かが使おうとしてもエラーを起こすように工作しようとした。
だがそこで、かすかな声が脳裏をよぎる。
――小さき者よ、その機能をただ封印するのではなく、我らにも開放して欲しい。
トスタノはその声の正体に気付いた。ペンダントを中継して届いた、精霊の声だ。
「何でまたそんな事を?」
――単なる封印では、封印が解かれた時為す術はない。だが、我々にも開放された形であれば、より気付かれ難く、そして”ギルグール”を為そうとする者に我らも干渉・妨害出来る。
「へえ。前会った時は”ギルグール”をあんなにも求めていた君達が、どうした風の吹き回しだい?」
――小さき者よ。我々はそなたの言葉とそれを実現した行動に賭けて見ようと想ったのだ。この世界の終焉を拒絶し、今生きてある全ての者を生かそうとするそなたの在り方にだ。
「なるほど。世界の在り方を恣意的に決めさせず、万人万物の総意で決めると言う訳だね。それに似たプランはすでにフリートラント総統府とポラニア議会王府で話し合われているけど、万が一の事もあるし、そのほうが良いかもしれないね」
――頼む。この世界は我らの世界でもある。我らにも議決の権利を与えてくれ。
トスタノは真剣な表情をした。ここでの決断が、世界の運命を決するかもしれないからだ。そして、しばらく考え込んだトスタノは、決心して頷いた。
「――判ったよ。このノードは君たちにも開けておく。万が一の時、君達の力が頼りになるからね。それと、精霊種の意思も世界の総意に加わるよう、現在予備交渉中のレーゲルの機能改善について提言しておくよ」
――済まない。
「君達もこの世界に生きる存在だからね。その意味では対等だよ」
トスタノは言葉を返し、人工神格レーゲルのバックドアを精霊達にも開放した。無論、厳重な偽装工作を重ねてである。
そしてトスタノは、その他のレーゲルの不正使用――例えば軍事転用や自壊などのコードを無効化していった。これにより、人工神格レーゲルはその本義のみに使用される事となるだろう。
「ふう……これで一段落かな?」
トスタノは工作を一通り終えた後で、そう呟いた。
「万人万物の総意を引き受け、世界の”卦”を表す機械――君がそう言う物になるのを望むよ」
それは、自身の行為が世界に良い影響を与えると言う確信に満ちた意思であった。