●命名の儀
「――というわけで、そなたが何か知っておるのではないかと思ったのだよ」
元
節制の居室を尋ねた
讃岐院 顕仁は、広間での
隠者とのやりとりを話し、元
節制に尋ねた。
「『星の子と22人のアルカナ』という本があるのは知っていますが……」
それだけだと首を振る。
「あなたたちは、その
小さな星がケイオスさまではないかと思っているのでしょう」
「その可能性が強いとは思うておる。とらわれて、他の可能性を考えぬほどではないが」
「そうですね。私も、今あなたから聞いてその本について思い出してから、その可能性について考えています。
アルカナは
アルカナとしての自意識を持たず、ただの『継承する不思議な力』と思われていますが、それが正確であるかの確証はありません。
アルカナが私たちの無意識に働きかけていないとは必ずしも言い切れず、そして相手が
小さな星ならば
アルカナが従うのも道理でしょうし、その影響が継承者の無意識に働いていないとは言い切れないでしょう」
アルカナ同士は敵対しない、
星の子に逆らわない、という暗黙のルールが崩れ、制限が利かなくなる。
「ただ、その場合、幾つか疑問点がありますが。
……ところであなたは先ほどから何をしているのですか」
元
節制は自身の周囲に視線を巡らせ、警戒の視線を顕仁へと向けた。
「ほう。これを感じ取れるか」
感心したようににやりと笑う。
「やはり何かしているのですね」
「何ということもない、そなたを癒しの祝福で癒しておるだけよ。
アルカナでなくなり、ただの人魚族の者に戻ったと話していただろう。ここは
オーダリーの
アルカナが2人いるが、それでもきついのではないかと思うてな」
言われて、元
節制は体の各部を確かめるように肩を上げ下げしたり体を揺すったりする。確かに身が軽くなっている気がする。
「それは……ありがとうございます」
「で、そなたは何をしていたのだ?」
との質問は、元
節制だけでなく、
西村 由梨に向けてのものでもあった。
顕仁からの視線に、由梨が返答をする。
「元
節制さんにお名前を付ける儀式を行おうとしていたのよ」
その言葉に、元
節制は面映ゆそうに頬を赤らめ、落ち着かない様子でもじもじ体を動かして、「そうです」と応じた。
生まれたときに名前はなく、性分化してからでないと名前をもらえない人魚族にとって名付けという行為がどれだけ大切なものか、由梨は想像する他なかったが、ただ名をもらうだけでなく、儀式を行ってくれるのだと聞いたときから妙にそわつきだした彼女を見ると、それがとても意味のある行為なのだと察することができた。
それを頼まれたのは由梨もうれしいし、誇らしい。
生涯一度の大切なものなら、本物に負けず劣らず立派なものにしてあげたい。そんな思いがむくむくとわき上がって、本物の命名の儀はどんなふうに行われるのか、何が必要なのかを聞いて、道具をひとそろい集めたところで顕仁が来たのだった。
「なるほど」顕仁は納得し、あらためて元
節制を見る。「命名披露ならば、立会人が必要であろう」
「ええ。その役目は、この砦で一番の権威者で、今では
オーダリーの
アルカナの最長老でもある賢者の
隠者さまがふさわしいのではないかと考えていたわ」
「彼女なら広間にいるぞ。呼んでこようか?」
「いいえ」
腰を浮かせた顕仁を元
節制が止めた。
「お願いをする立場です。こちらから出向くのが筋でしょう」
その言葉に由梨も賛同し、3人で広間へ向かった。広間にはまだ
隠者がいて、
泰輔や
タヱ子の姿もある。
由梨から話を聞いた
隠者は、立会人の役目を快く引き受け、ついでに砦の他の者たちも呼んで、参加してもらおうということになった。
現状、砦は重い雰囲気に包まれている。そんな中で大々的に行うなど、どうかすると不謹慎ととられかねない行為だったが、そういった負の気を吹き飛ばし、空気を変えて、彼らの気持ちを上向かせるいいきっかけになるのではと考えたのだ。
「あねさまのめでたいことだからねえ」
「
隠者。……ありがとう」
何でもないと首を振り、手を取って喜ぶと、
隠者はさっそく「手の空いている者だけでいいから」と砦の者に呼びかけた。
隠者の呼びかけに、砦の者がぞろぞろと集まってくる。その中にはミスティと女海賊たち、クリスティアノス、そして
教皇の姿もある。救出作戦に参加せず、砦に残った聖騎士団の者たちもいた。彼らは一様に苦虫を噛みつぶしたような表情こそすれ、笑顔の者は皆無だったが、団長クリスティアノスが無言でそこに立っているのを見て、あえて
隠者に進言しようとする者はいなかった。
処刑は延期と結論が出たがそれを快く思わない者が強硬手段に出ないとも限らないと目を配っていた由梨は、彼らの態度を見て警戒の必要はないだろうと結論付ける。
あの様子なら、内心はどうあれクリスティアノスを無視して前に出る者はいない。いたとしても、クリスティアノスが「恥をかかせるな」と押さえ込むに違いない。
ざわめきの中、由梨は元
節制へ話しかけた。
「あらためてあなたに伝えておきたいの。私は西村 由梨といいます。どうぞ由梨と呼んでください」
「ユリ」
「もうすでにご承知と思いますが、この世界の者ではありません。まだまだこちらの事情には疎く、そのせいで奇妙な発言をしてしまうかもしれないわ。その点は大目に見てちょうだい。
私があなたに贈る名前は、ポラリスといいます。これは天の北極のすぐそばに位置し、航海時の目標として最も重要で誇り高い星の名前、導きの星の名前でもあります」
「ええ、そうですね。北極星はとても重要な星です」
「それで……、なんだか思っていた以上に大事になってしまっているけど、あなたに贈る呼び名は、世間一般的に知られてもいいものかしら? それとも限られたごく一部の間で秘密にしておかなくてはいけないもの?」
「大丈夫、知られても問題はありません」
「そう。よかった。
あともう1点」
「何でしょう?」
「
月さんも人魚族だと聞きました。それなら呼び名を持っているんですよね。聞いてもいいですか?」
この質問に、元
節制は遠い目をして少しの間黙り込んだ。
「……どうでしょう? あの子と妹は、まだ性分化をする前に仲間の元を離れました。年齢的に性分化は十分終えていておかしくありませんし、もしかすると妹と名付け合ったかもしれません。師である
魔術師か、ケイオスさまに付けていただいた可能性もあります。
わたしが出会ったとき、
月はもう
月でした。そしてそのことについて触れたのは先日の船での会話が初めてでしたから、わたしは知りません」
話しながら彼女はそのときのことを思い出していた。あのとき、
月は「妹」と固執していたが、そんなはずはない。仲間からはぐれた2匹の小魚は、育つにつれて種の保存本能が働いて雌雄別性となる。大抵の場合、小さくて弱い個体が女性化し、大きく強い個体が男性化する。妹が女性体になったのなら
月は男性体になったはずだが……。
(でもあの子の体つきは、確かに男性体というより女性体ね。いえ、女性体というより……幼体に近い……?)
あれだけ育ってまだ性分化していないなんて、そんなことがあるだろうか。
そこで由梨や、場のことを思い出した。広間にいる全員の注目が自分たちに集まって、始まりを待っている。今は考えにとらわれているときではない。
「とにかく、これ以上皆さんをお待たせしてはいけませんね。始めてください。
ポラリス……とてもすてきな名です。ありがとう――……」
声が急速に小さくなり、言葉が途絶えた。
由梨の目の前で、突然彼女の気配が薄くなる。
薄くなったのは気配だけではない。彼女の体から色が褪せていき、薄くなって、透けていく。まるで空気に溶けているかのよう。
その現象に目を瞠る由梨たちの前で。笑顔のまま、彼女は消えた。最初からいなかったように。
誰かが何かしたわけではない。
ただ、消えたのだ。
驚愕の出来事に、とっさに誰も動くことも、言葉を発することもできなかった。広間は異常な静けさに包まれ――やがて、金縛りを解く悲鳴が召使いの女性の口からほとばしった。