〈市中地獄行脚(12)〉
雨海が集落に足を踏み入れた頃、その数本先の通りでは
砂原 秋良の鉄扇が閃き黒い獣の眉間を叩き割っていた。
ぎゃっと呆気ない悲鳴の後に獣は地面に落ち、やがて黒い靄を発しながら溶けて消える。
秋良が振り返ると、建物と建物の間の路地から少女がひとりこちらをじっと見つめていた。
「どうしました? 怪我人がいるのなら、手当てしますよ」
「……」
少女は何も言わずに背を向け、路地の奥へと走っていく。
秋良は少しの間その背中を目で追っていたが、耳をすませば聞こえてくる泣き声や呻き声に確信を得て路地に入った。
(この状況で私に出来ることは、恐らくそう多くはないんでしょう。それでも、こうして助けを求めている声がある……なら、手を伸ばしますよ)
路地裏に来て、秋良は思わず息を呑む。
「敵」の目を逃れるように逃げ込んできたと思われる怪我人が何人も壁に凭れ、あちこちで横向きに倒れている者はぴくりとも動かない。
「だ……誰だっ」
壮年の男性が転がっている薪を手に取り、秋良を睨みながらよろよろと立ち上がった。
「もういいよ、おやっさん……」
「家も壊された、旦那も殺られた、あたしゃもう生きてけないよ」
「死んだ方が……マシだ」
立ち上がった男性に、他の怪我人たちは涙を流しながら口々に嘆く。
(こういう時こそ、婆娑羅の出番でしょうかね)
秋良は男性の弱々しい威嚇に怯まず、救急セットを掲げて見せた。
「包帯に湿布、傷口を洗う薬液……とまあ、役に立つ道具を持ってるんです。ここで巡り逢ったも何かの縁、その傷、治療させてもらいますよ」
「なっ……」
どこか有無を言わせぬ物言いに男性は返す言葉をなくす。
「断っても無駄ですよ、勝手にやりますから」
秋良はまず最初に見かけた少女の前にしゃがんだ。
「大丈夫、痛いことはしません。私がさっき禍々しい獣を叩き伏せていたところを見ていましたよね? こう見えて、修羅場戦場の類はそこそこ踏んでるんです」
秋良は慣れた手つきで擦り剥けた少女の膝を治療し、包帯を巻く。
「痛くないですか?」
優しく親身に問う秋良に、張り詰めていた糸が切れたのだろうか。
少女は目にみるみる涙を溜めながら何度も頷いた。
「あっ、あなたはだぁれ? どこから来たの?」
少女が発したその質問は、秋良に興味を示し信頼したいという願望の表れだ。
「私は、助けを求める声に呼ばれ流れてきた渡来人ですよ。さて、次はそこのあなたです」
少女に対する手際の良い応急処置と親身な対応が他の怪我人たちから不信感を取り払い、薪を持っていた男性までも大人しく秋良の治療を受ける。
信頼とは実績が生み出すもの……秋良の中の常識はこの世界でも十分通用するようだ。
ひととおり応急処置を終えて、秋良は他の場所に怪我人を探しに行こうと立ち上がる……が。
「ひいぃっ!」
入ってきた路地の入口に山猫のようなシルエットが浮かび上がり、それを見た怪我人のひとりが悲鳴を上げた。
(またしても禍々しいものが来ましたね……)
せっかく献身的な治療で怪我人たちの絶望感が和らぎ始めていたというのに、何というタイミングだろうか。
だが、秋良に「倒さない」という選択肢はない。
(相変わらず手持ちはこの鉄扇のみですが……だからといって、戦わない理由にはなりませんからね)
明日を生きる希望をこの怪我人たちに灯してやりたい。
それを言葉で安易に伝えたところで、そこに重みは乗ってこない。
真に人の心を動かすのは口先の甘言にあらず、覚悟と決意に基づいた行動のみ。
(さあ、婆娑羅の在り方を見せてあげましょうか)
秋良は鉄扇を広げ、全身に霊力を巡らせる。
軽く鉄扇を一振りしてみれば動きは万全で、防寒用の毛皮のお陰で寒さに体が縮こまっている様子もない。
これなら十分迎え撃てる……と、秋良は霊力で獣を形作り、黒く禍々しい獣との距離を悠然と詰め始めた。
婆娑羅は己を「魅せる」達人だ。
頭の櫛を雅にちらつかせ、「こんな奴にはやられない」と謎の自信を醸し出しながら魔物に対峙する姿に、怪我人たちはいつの間にか目を奪われている。
そんなことには構わず禍々しい獣は猛然と駆けて跳躍し秋良の喉元に食らい付こうとしたが、秋良は「全身結界」と言っても過言ではない強固な肉体と霊力で出現させた獣で敵獣の牙を阻み、鉄扇をフルスイングした。
何か太いものが折れるような鈍い音の後、鉄扇で打ち飛ばされた獣は地面に体を打ちつけたきり、身じろぎひとつしない。
やがて、黒い獣はその体の色を滲ませたかのような同色の靄を発しながらどろどろと崩れて消えた。
「あの禍々しい奴も、死ぬのか……」
怪我人の誰かがぽつりと呟くと、人々は互いに見合って口を開く。
「死なない化け物じゃないんだ……」
「倒せる人がいるなら、俺たちにだって生き延びる術があるんじゃないか?」
「生き延びたら、またやり直せるだろうか……」
それは、絶望的思考に囚われていた人々の中に「希望」の二文字がぼんやりと浮かび始めた瞬間だった。
「渡来人、と言ったな」
先程まで秋良を警戒していた壮年の男性が彼女に歩み寄る。
「我々を癒し守ってくれたこと、感謝する。この地で何か困ることがあれば頼ってくれ。そうは言っても、家も壊されどうにもならん有様だが」
「お気持ち、感謝します」
秋良は微笑むと救急セットを抱え、
「私は、あなた方が再び立ち上がろうと思ってくれただけで十分ですよ。さて、他にも怪我人がいるかもしれません。私はもう少しこの辺りを回ってみます」
と言い残し路地を出た。
この地には、絶望に打ちひしがれた人々がまだまだいることだろう。
(行くとしましょうか……嘆く彼らの胸に、何度手も立ち上がるための希望の火を灯しに)
秋良は毛皮の裾を揺らしながら救いを求める声を探して歩むのだった。