〈市中地獄行脚(9)〉
アルヤァーガと聖が川沿いの賤民集落に足を踏み入れた頃。
焔子もまた、川幅の広い河川の反対側で敵の姿を探し駆け回っていた。
(まともな状況ではありませんわ……その世界で真の力を発揮出来る筈のアバターの能力が制限されるなど。こうした稀有なケースが示すのはただ一つ、この世界がそれだけ危機的状況に置かれているということです。この世界に馴染むまで様子見をしている場合ではありませんわ――)
「――今はただ、行動あるのみですわ!」
迷う暇も考える暇も惜しい。
焔子は自身が最も信を置いているアバター「ラース・シン」の姿で川沿いを警戒する。
だが、まるで生存者の影がない。
代わりに目に付くのは、燃え尽きたぼろ家、崩れた家屋の下敷きで息絶えている民、全身を切り刻まれ放り捨てられた惨い遺体……それも、一人二人ではない。
時折ふわりと流れる風さえ血の臭いに染められ、焔子は思わず眉を顰めた。
「お駒様が言っていた『特に酷い』とは、こういうことでしたか……」
一人でもいい、どこかに生きている人はいないのか。
歩き回っていると、微かに金属が立てる甲高い音が聞こえ、焔子ははっと音のした方を振り向き走る。
河原まで駆け下りると、何者かが血塗れの人に馬乗りになって襲いかかり、血塗れの人は刃こぼれした刀でそれを必死に受け止めている最中だった。
その近くでは腰を抜かして動けないのか、呆然とへたり込んでいる数人の民がいる。
ざわりと逆立つ憤怒の情。
焔子は研ぎ澄まされた第六感の力も借りて馬乗りになっている者目がけて剣を投げ放った。
「ぎゃあっ!?」
剣を胸に突き立てられた形となった者はざらつく悲鳴とともに後ろに反っくり返る。
「皆様、もう安心ですわ」
へたり込む民たちの元に駆け寄りその一言だけ伝えると、焔子は倒れる人の元に急いだ。
そこで改めて馬乗りになっていた者が人間とは程遠い容貌の持ち主であることを知る。
それはまさに「禍々しい」という表現がぴったりの、悪魔にも餓鬼にも見える姿だった。
事切れた敵から剣を抜くと、敵は小さな黒い羽に姿を変え、靄を発しながら崩れるように消えてしまう。
敵の死体から何か手掛かりでも掴めればと思ったが、消えてしまうとは想定外だ。
とはいえ、これで敵が「生身の人間とは違う、妖魔や穢魔に近い存在」ということははっきりした。
焔子は急いで剣をしまうと、今度は敵に組み敷かれていた血塗れの者を助け起こそうとする。
血塗れの者は一見して武士と分かる格好の女性だったが、全身切創だらけで顔面は蒼白、呼吸も浅く目の焦点も合っていない。
「しっかりして下さいませ! 今、誰か助けを――」
女性が助かる見込みのない大怪我を負っていることは一目瞭然だったが、焔子はそれを当人に悟らせたくはなかった。
それに、人間は気力で奇跡を起こすこともある。
ここにはひどくみすぼらしいが民たちもおり彼らに手伝いを請うことも出来よう、諦めるにはまだ早いと感じて焔子は助けを呼ぼうと思ったのだが……。
「私は、もう……駄目だ」
武士の女性は血塗れの手で焔子の服の裾を掴む。
「何を仰るのですか! 諦めてはなりませんわ!」
「どうか……聞いて……」
女性の目尻から涙が零れ落ちるのを見て、焔子は口を噤んだ。
(ああ、この方はもう全てを悟っているのですわ……)
焔子は女性の傍に片膝を着き、耳を寄せる。
「荒瀬、様に……伝えて……。川沿いの民を、守る任、私にお任せ下さり……恐悦、至極……志、半ばにて、果てること……何とぞ……ご容赦を……されど、民のために、戦えたこと……武門に生まれし者として、誉れに思いまする、と……」
「確かに承りました、必ずお伝えしますわ」
焔子の返事に、女性は菩薩のように微笑むと、はらり……とその手を落とす。
焔子はせめてもの供養と手を合わせようとしたが、その時。
「何か」が焔子の二の腕を鋭く掠めた。
ぱっくりと割れた傷口から鮮血が滲み出し、彼女はようやく敵襲を受けたと気付く。
鋭い第六感さえ働く前の一撃。
それ程までに気配もなく、更に高速の攻撃だった。
「この俺に傷を付けやがったクソ人間の女を手下に追わせてみりゃ……まさか鳥族がいやがるとはな」
灰褐色の髪を前から後ろに特徴的な形に纏め上げた目つきの鋭い全身土気色の肌の男が、河原の小石を踏みしめながら焔子に近づいてくる。
「おい鳥族……死ねや」
言うなり男は不可視の刃のようなものを焔子に飛ばした。
咄嗟に盾を構えて刃を凌いだが、その時には既に男は焔子の盾の前まで間合いを詰め、手刀を構えている。
手の先は鋭い爪が鉤爪のように長く伸び、ドリルで穴でも開けるかのように焔子の盾を正面から突いた。
びりびりと手が痺れる程の衝撃に、焔子は冷や汗を一筋垂らす。
「チッ、力が出せねぇってのはガセじゃなかったようだな。あの孔雀モドキ、余計な真似しやがって」
(力が出せない……? 私たちだけでなく、敵も本来の力を封じられているということでしょうか? それに、「鳥族」、「孔雀モドキ」とは……?)
焔子の頭上には幾つもはてなが浮かんだが、それに呆けている場合ではない。
既に男は苦無のような爪を生やした太い足で焔子を蹴ろうと構えていた。
(あんなのを食らったら無事では済みませんわ!)
焔子は己の危機を敏感に察知し一歩下がる。
蹴りが焔子の盾を僅かに掠めて空を切ったことに男が舌打ちすると、焔子は今とばかりに剣を投擲した。
男は手の甲で咄嗟に剣をはたいたが、その隙に今度は焔子の方から間合いを詰める。
彼女の手には、まるで河原の地面から引っこ抜いたかのような石まじりの直方体。
それが何かと考えるよりも先に、男の頭にそれが直撃した。
「クソ……ッ!」
男は頭を押さえながら後退り、焔子を強く警戒する。
「腹立つわー……」
男の殺気がぶわっと増し、焔子は思わず息を呑んだ。
更に、時に悪い事は続くもので、そこに先程の餓鬼もどきと同様の姿をした者まで駆けてくる。
(私ひとりでどこまでやれるでしょう……これ、かなりピンチというやつでは?)
焔子は危機感を抱いたが……。
「大兜(だいとう)様ぁぁぁーっ!」
新手は男を「大兜」と呼び、息も絶え絶えに訴える。
「クソ人間が、あーいや、アレ人間じゃねぇような……いやでも人間みてぇな奴で……あっ、何でこんな所に鳥族がいるんだぞ!? 人間以下のクソめ、オイラがズタズタに――」
「さっさと用件吐けやボケェ!」
余程殴打された頭が痛いのか、男は苛立ちそのままに餓鬼もどきに怒鳴った。
「ははははっ、はい!」
一度は焔子に殺意を剥き出しにした餓鬼もどきだったが、余程男が恐ろしいのかすぐに焔子から視線を逸らす。
「とにかくいきなりでっかくなってぶん殴ってきた人間みてぇな奴がいて、仲間がやられっちまいそうで! とにかくクソなんだぞ、腹立つんだぞ!」
餓鬼もどきの訴えを聞いた大兜は短く溜め息を吐くと、ギロリと焔子を睨んだ。
「命拾いしたなぁ、鳥族。ま、折角拾ったその命も次会ったらお終いだがな。せいぜいてめぇの墓穴でも掘って待ってろや、この大兜様がきっちり埋めてやっからよぉ」
大兜は一気に上空まで舞い上がる程の凄まじい跳躍力であっという間にその場を去り、彼を呼びに来た者も大兜に続けとばかりに駆け去っていった。
* * *
安堵するべきか悔しがるべきか……焔子が複雑な面持ちで佇んでいると、みすぼらしい姿の民たちがとぼとぼと歩み寄り、血に塗られた刀を一振り彼女に差し出した。
「そこの武士さんの形見だ……荒瀬様んとこ行くなら、持ってってやってくれ」
「それと……気に掛けてもらえるのは有り難ぇが、ここのことはもう捨て置いてくれと荒瀬様に言っといてくれるかい。まともな武士はこんな所には頼まれても来ん……あの武士さんがどういうつもりでここに来たかは知らんが、荒瀬様が命じなければ死ぬことはなかっただろうに。荒瀬様はもう、ここと縁を切った方がいいんだよ」
人々から醸し出されるのは、「絶望」の二文字だ。
それも、此度の災いによるものよりももっと根深い何かのせい……焔子にはそう見えるが、確証は持てない。
言っている内容も今ひとつピンと来ず深く問いたいところだが、それすら拒むような「壁」を感じ、焔子はただ
「分かりましたわ」
と刀を受け取るしかなかった。
だが、民たちの言動から雅仁が川沿いの集落を気に掛けていることは何となく掴めた。
(そういうことなら、私もこの人々のために力の限り戦うべきですわ……)
焔子は気持ちを切り替えて民に尋ねる。
「この近くに、他に禍々しい者がいれば教えて下さいませ。私が成敗してきますから」
「……まぁ、あんたは腕が立つようだし、そう簡単に死ななそうだから頼んでもいいか。いるかどうかは分からんが……土手を上った先、集落の境を見てくれるかい? 俺たちにゃ逃げ場がない、集落の外からあの連中に入られちゃ死ぬしかないからな」
「逃げ場がない」のが何故かも気にはなったが、焔子は快く頷き、頼もしい足取りで言われた方向に足を向けるのだった。