…※…※…※…
好きよ。大好き。
わたしの大切な人。大事な人。
わたしが笑っていられるのは、あの人のおかげ。
あの人と出会ってわたしは光を抱きしめることができた。
だから、
あの人がわたしを殺しても、わたしはただ笑うの。
好きよ。大好き。
わたしの代わりに、あの人が生きていてくれるのなら、
わたしはよろこんで死ぬわ。
本当に? だなんて聞かないで。
好きよ。大好き。
その手に縋り付くわたしをわたしに気づかせないで。
あの人が生きていてくれるだけで、わたしは幸せなの。
…※…※…※…
水底の砂を舞い上げて川も湖も文字通り泥水と化した。
その中で颯爽登場したのは魅惑のボディの黄色いアイツ。否、ある世界では夏の時期になれば海水浴場でよく目にするバナナボートが正体であったりするのだが濁色ばかりの風景に突如として膨れ上がったので後光を射し込むが如くだった。陽光があれば自ら艶めいていてくれただろうが、実際はそれほど派手に世界への乱入はしていないし、これが晴れた日の午後であれば珍しい形のボートだと思われただろう。
ただ、やはり、目立つ。そして、現状で目立つというのは言うまでもなく強みであった。
「助けてくれ」とすぐに救助を待つ人の声がかかる。
…※…
雨風が凄い。これは波乗り……否、救助活動を急がなければ。
救援要請を受けて現地に到着した
藤白 境弥と
シンシア・レイコットのふたりは、短時間ながら街が水没するという水害がどうして発生してしまったのかその身を持って知ることになった。
浸水してしまった建物を基準として考えるに水深は浅くはなく、場所によっては家屋が完全に水に没してしまっている。
「まさしく取り残されているってやつだな」
エヴィアンなら翼があるし飛んで逃げられるだろうと単純に考えてしまったが、これは状況が良くないと判断できる。
雨は叩き落さんと言わんばかりの苛烈さで、風は広げた翼なんて体もろとも吹き飛ばさんばかりの熾烈さだ。この天候の中、突き進める豪胆な人間達はとっくの昔に逃げ出していて、非力な者や機会を失った判断力のない者らが被災者として動けずに留まっているのが現状と認識してもいいだろう。ならば雨も風も弱まる気配なくば奪われ続ける体温に体力は削られ、空元気でも不安を跳ね返せたはずの気力すら摩耗して精神に失い、代わりに思考を占めていくのは嘆きか絶望か、取り残される孤独への恐ろしさか。
こんな非日常に晒されて人々はさぞ肝を冷やしていることだろう。非日常には慣れている境弥は「悠長にしてられないな」と小さくこぼす。昼間でもこの暗さだ。夜になったら厄介になることは想像に難くない。
夜は、良くない考えを呼び込む。
明るい内に手を打たねばと境弥は、助けを求めるしか方法がない人達が生きる手段にと水に流されないよう縋りついていたはずの手を自ら離してしまう前に発見し保護する為に動き出す。
考えるより先に行動を起こす。救助中に二次遭難したなど全く笑えないので急ぐのだ。迅速に行動してから、平行して効率を模索する。反復作業になるのは自分が持ち出す救助手順からわかりきっている。繰り返していけば慣れとコツの掴みやすさで最適化し洗練されていくだろう。
まずは一人目を発見することから始めるのだ。
水上オートバイは一人乗り用で屋根もなければ扉もないオープン型。現地に到着する前からずぶ濡れで、濡れることを厭わない境弥は口端を吊り上げて、始動にエンジンスイッチを押した。
…※…
この雨風にエヴィアンの翼を広げるのは勇気がいるだろう。嵐の中で傘をさすようなものだ。骨が支えきれなければ翼は折れるだけだ。折れてしまえば再び開くこともない。怖気付けば飛翔もままならず、一度飛び立てば耐え続けることを強いられる。
けれど、飛行能力より強く試されることがある。一見優雅にも見える種族の特性が、シンシアは飛ぶことがこの状況でどんなにか困難かはばたくごとに実感していた。翼の大きさからして風を受ける面積が多いのは当然だし、降雨の飛行に水を弾く羽根が徐々に重たくなる感触も慣れたものだ。個人差はあれど飛んで逃げないという選択をする者がこんなにも多くいるとは想像していなかった。
シンシアは認める。ただの嵐ではないと。なぜならこの雨は覆い被さろうとしている。この感覚はもしかしたらエヴィアンにしかわからないかもしれない。まるで、無理に開こうとしている翼を押し留め包み慰めるように撫でているような、そんな優しさがあった。これに気づき囚われてしまえば飛び立てと言われても難しいかもしれない。
無意識にシンシアは右手で自分の胸元を掻き抱いた。
落ち着いて、と自分に投げかける。
私に出来ることをするの、と自分を奮い立たせた。
翼を広げることで“大丈夫よ”と“無理をしなくていいのよ”と囁きかけでもしているような体を打(う)ち叩(つ)く雨に抗いシンシアは空を往く。
立ち込める雨雲は厚く辛うじて明るいとわかる真昼の天候を背景にして、魔力を秘めるシンシアの翼は光を宿しているかのように仄かに煌めいて在って、夕暮れの一番星のように目に留まった。
明滅が如く発するものはまるで希望の光臨みたいに目に映ったのか人が空に手を伸ばし、おーいおーいと助けてもらおうと大きく左右に振っている。
その人が大人だと視認できたら瞳だけをずらしシンシアは水上でこの上なく目立っているだろう魅惑の黄色ボディを探した。シンシアが求める者は障害物を避けるためのルート作りにフックショットを近場の家屋の壁に打ち込んでいる最中であった。
難所を越えて水上オートバイを旋回させる境弥が視線を上げたタイミングを見計らったように、水面から顔を出している橋の欄干にシンシアは着地する。
「藤白……。 人が、……居ました」
「わかった。どこに行けばいい?」
シンシアの問うと彼女の人差し指は、境弥がちょうど向かおうとしていた先の先を示していた。
視覚聴覚魔力気配全てを感知して位置把握を到底して頑張っても及ばずに終わってしまう場合がある。遠く人の声が聞こえたかなという薄い根拠に頼らざるをえないものが、シンシアの言葉で確固たるものになって、ひとりよりはふたりだなと小さく零し指でスロットルレバーを引いた。
「大丈夫ですかー? 今救助しますので落ち着いてくださーい」
人の側に寄った境弥は、冷えて固まっている相手の指を無理に開かせず、あたためるように被せる手でバナナボートに新たに括らせているロープにしがみつくよう誘導させる。ボートを跨がせ一息を吐かせてから、移動途中で転落しないよう相手にこれから緩めにだがボートに固定させていくことを詳細に伝えた。
もうひとりを抱えてシンシアがゆっくりと羽ばたき降りてくるので境弥は背筋を伸ばしそちらへと顔を向ける。
「大丈夫ですよ……絶対に助けますから」
先に乗せた老婆がわあわあと震える声でシンシアが連れてきた子供に手を伸ばし、子供も「おばあちゃん」と応えるので家族同士と察した境弥は、なら更にと丁寧に接して幼子を受け取り、同乗する人達には決して暴れないようにと言い含めた。
シンシアにも子供の後ろ、つまりは一番後ろに座るよう促し、境弥は流されないよう引っ掛けていた固定用のロープを解く。
「風とか強いのでしっかり捕まってください……。 では行きますよー」
そうして、バナナボートは静かに出発した。
水面に浮かばせたり滑らせたりを上に乗って楽しむゴム製のレクリエーションボートは牽引されなければただ波間を漂うだけの浮き袋と化す。安定性に優れず波の段差に乗り上げれば転覆しやすい。本来ならそんなリスキーさも楽しみのひとつなのだが、この濁流では命さえ脅かされるだろう。最初こそ口端を持ち上げていた境弥は今はただ奥歯を噛みしめるように一文字に唇を引き結び、比較的水流の弱い安全なルートを選び水上オートバイのハンドルを握り運行させていく。
「声が聞こえますか?」
倒壊した建物に袋小路となった道の奥で震えている小柄なエヴィアンの姿にシンシアは投げかけた。弾かれたように上がった面差しは幼い子供のものだった。翼が開かないのかと問うと子供は頷く。すっかりと冷えた体で翼を支える筋肉が固まってしまったのだろう。上昇する水面に瓦礫に登って、天頂に辿り着いて逃げ場を失ったのか。飛べば済む距離も翼が開かないと手も届かない高さと遠さだ。すぐ側の物置小屋の屋根に移ったシンシアは真下の子供へと手を伸ばし、「助けに来たの」と自己紹介の代わりに添える。
「手を伸ばして……貴方を助けるから」
諦めることはない。声をあげてくれたから自分は貴方を見つけることができた。今度は私の番だからとシンシアは子供をその場から引っ張り上げた。
「あったかい」とすり寄ってくる冷たい体を抱き上げて「貴方は頑張っているわ」と働き回ってすっかりと寒さを忘れてしまっていたシンシアはキッと紫色の瞳に厳しい色を滲ませる。
大人より子供の数が心なしか多い気がする。救出した者や無事避難できた人達の顔ぶれを想起し、シンシアの表情はますますと厳しくなった。大人の数が心なしか少ない気がする。水に飲まれたのは大人が多いのか? 考えても今は意味がないと疑問は隅に退けて、シンシアは改めて二次被害だけでも食い止めようと翼を広げた。
渦巻く水音の中から人の声を聞き分けたシンシアが遭難者の所在を確認しに翔び、子供を抱えて出てきた。
「藤白、こっちに……」と手招く彼女の元に急ぐ。
バナナボートの正しい使い方は端折ろう。応用で、バナナボートの先頭部にはロープが付帯されており、牽引できる仕様になっている。これを人力または動力で引っ張り、水上を滑るように移動するのだ。
転覆しないようこまめにサポートできる人員。牽引する力がぎりぎりなんとか濁流に耐えられたのがよかった。ルートを決められる慎重さが足りないが、そこを原動機からの動力を使用したウォータージェットの推進力で無理やりカバーしている。小回りの効く機動性を武器に縦横無尽に街の隅々まで避難所との往復を重ねていく。
シュバババと泥水色の水飛沫をあげて境弥は助ける人の元へと急行するのだ。
「波乗り最高ーヒャッハー」
シンシアが居ない孤独な一時に、思わず叫ぶ。
それにしても、天候こそ残念だが、水上オートバイは最高で、この爽快感がたまらない。
後方の黄色いボートが障害物に当たって豪快に跳ねるが人が乗っていなければ気にするものでもない。
目撃されない所でのささやかなフルスピード。仕事はしっかりとこなしているなかでの内緒ごと。
人を救い、体力低下を考慮して都度の応急手当て。癒やし手の継続が必要ならシンシアを同乗させて、状況に合わせて臨機応変と対応していく。
時間との勝負で、数をこなすだけが自分達の強みと境弥は水の流れを見極める。
犠牲者をゼロを目指し、最後は笑ってのハッピーエンドとなるように。
シュバババと水上オートバイは水飛沫をあげていく。