三千界のアバター

鬼斬刀の眠る山 第1話

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鬼斬刀の眠る山 第1話
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【0】楠木邸



 この屋敷に、使用人はいない。もう雇いあげないと決めていた。
 穢れた山々と、それに怯え、それでもこの場所を愛する人々の住まう、辺境の一角。
 それが、いま、楠木妥門が手を伸ばして、治めることのできる土地の全てだ。
 
「妥門様、わたくしはやはり、こちらに残ります。――もし、もしあの刀が……」
「いや、お前は行きなさい、市。妖一門も、随分と統率が乱れているみたいだしね。万一のことがあれば、それこそお前の足が命綱でしょ」
「ですが妥門様の身にもしものことがあれば……、わ、わたくしは……」

 大結界に守られる楠木邸の門前に跪いた、久野市子が目の前に立つ妥門を見上げる。
 長い黒髪を生真面目にきつくきつく頭の後ろで結わいているせいで、本当は垂れているはずの目尻が持ち上がり、まだうら若い眉間にまで皺が刻まれているのが、すっかり常になってしまった。
 けれども、どんなに厳しい表情でも、不安な時、僅かに小さな鼻をひくひくとさせる癖は、幼い頃から変わっていない。

「大丈夫だよ、ここなら符がたくさんあるしね。……それに、お前にそこまで心配されるほど、私って落ちぶれてるの?」

 妥門が少し大げさに苦笑して見せれば、市子はハッとした顔をして、「決してそのようなことは」と素早く頭を下げる。

「なら、行きなさい」

 もう一度促せば、市子はまだ一瞬ためらうような表情を見せたが、それ以上は食い下がらずに、「御意」と答えて風に巻かれるように姿を消した。
 遠くで獣の唸る声が響く。この屋敷から、最も近い南の村までは妥門の足で四半刻だ。邸宅の周辺だけは一応のこといくらか草を刈っているが、目と鼻の先はもう山林に囲まれていて、こちらに向かっているという村人たちの姿はまだ見えない。

「さて――、大丈夫って言っちゃったし、少し働いておかないとね」

 木々の間に、浮かび上がる赤い光。
 無数の獣の瞳を横目に、妥門は袖から式符を取り出した。

 この世は、一見複雑に見えて単純、単純に見えて煩雑――絡み合い解け連なって、劇的と普遍は同化と隔離を繰り返す。
 その渦に身を投じても、はたまた数歩身を引いたとて、誰もが主役になれるわけではないし、誰もが主役になりたいわけでもないことは、たぶんきっと、変わらないし、図れない。
 だが、けれども、願わくは。

 ――君だけは、君たちだけはと思わずにはいられない、
 この想いこそが全てを壊してしまったというのに、まだ。


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