第一章 獣の臭い
村に夜が訪れた。
村で唯一の宿屋兼酒場は、血まみれで転がり込んで来た男性・
ベンの登場に一気に騒然とした。
「出るな……獣……が……すぐ、そこまで……」
ベンは掠れた声で制止し、常連客二人のうち一人が、ドアノブにかけようとした手を引っ込める。
宿屋は急に密室に変わったように感じられた。
重い空気を振り払って
宿の主人が血まみれの手を洗い、裏口から薪割り小屋に出て帰ってきた時、客の口から小さな安堵の息が漏れた。
主人は一本の斧を客に渡し、そしてもう一降り、使い込まれた剣を腰に下げている。
「武器は二本か。一本はお前たちに渡す、ベンを運んでやれ。俺は……この剣でお前らを守る。腕は鈍っても元傭兵だ、一匹や二匹なら……」
空いた手で松明に火を灯し、酒場を見回す。
「この火も役に立つかもしれん。……他に誰か手伝う奴はいないか?」
常連客二人の他に村人はいない。
代わりに宿を求めてきた旅人――特異者たちが次々と手を挙げ、声を上げた。
(……獣の……遠吠え?)
急遽住み込みで手伝いをすることになった
目片 珠樹は屋外の音に一瞬気を取られていたが、彼らの声にはっとしてカウンターの中に入った。
「何だ?」
「運ぶまでの間、応急手当を。お酒とシーツをお借りします」
主人に問われ、並ぶ酒の中からアルコール度数の高そうなウイスキーの瓶を取り出し、奥に入って予備のシーツを取って来る。
「……ご主人、僕は酒場で待っています。無人は不用心ですし、誰か来るかもしれません」
「そうだな、誰か一人くらいはここに居た方が良いだろう。頼む。ベンはまず傷を洗い流してやってくれ」
「はい。――大丈夫です、お客様。僕らがここを守ります」
珠樹は客(多くは特異者であったが客でもあり、村人もベンもいた)を落ち着かせるように言うと、ベンの側の床に膝をついた。
血まみれの包帯をはがすと、汲んだ水で傷口を洗い流してから、栓を抜いたウイスキーで消毒する。ベンは苦痛に呻いた。
(ベンもここを頼って来たのだから、必ず守る)
ベンがいう“獣”は足を狙ったのか、ベンが噛みついて来るそれを振り払ったからか――傷は四肢に集中していた。大きな顎で噛みちぎられたような。
ひどい噛み跡に思わず顔をしかめながらも、珠樹は宿への義理と責任感から消毒を続け、裂いたシーツで大腿部と腕の付け根をきつく縛った。
主人が床に置いたままにしていた救急箱が目に入り、そこから清潔な布や包帯を取り出して傷口を塞ぐ。先程付け根を縛ったおかげで、出血量はかなり減っていたもののすぐに赤く染まってしまう。
「うっ……」
「頑張ってください、皆さんが今出発の準備をしています」
珠樹は無用な言葉をかけないように、同時に彼の言葉に耳を澄ませていたが、ベンは荒い息の下で言葉を絞り出した。
「……あれは……獣……じゃ、ない……まるで……意思を……」
「……大丈夫ですよ、旅人の方々は戦い慣れしているようですから」
安心させるためにそう言ったものの、気にかかる。
一通り今できる手当を終えてから、珠樹はありったけのランプと松明を集めて火を赤々と灯し、玄関と裏口の施錠を確認した。
後で彼は宿に非難してきた村人を出迎えて泊めることになるが――今は長い夜のほんの始まりだった。
「ただの獣じゃない、か」
主人が珠樹から聞いた言葉を繰り返した。
「悪魔か何かの仕業だっていうのか?」
宿を取ろうと遅くここに訪れた
木津川 絢乃は、突然の事態に面喰らっていたものの、既にサバイバルベストを身に着けて行動を決めていた。
手の中の狩猟用ライフル――古い型なのが幸いしてここでも問題なく動くようだ――を主人に見せる。
「こんな事態だから、私も一緒に送り届けます」
そう申し出たものの、
(格好だけなら、着物姿でライフルを持って暴れるなんて、なんだかまるで一昔前の……)
いつかテレビで見かけた映画を思い出して、絢乃は内心で自分に苦笑した。
「そんな服で、動けるのかい? 貴重な服を汚さないかい? それともお国じゃ女がライフルを?」
「その、まぁ……」
絢乃は主人の疑問に言葉を濁した。女だからライフルを持ってはいけないという法はないが珍しくはあるだろう。
「じゃあ、こちらは他の方たちにお任せするとしてー」
桜・アライラーが十分な数の特異者たちがいることに安心しつつ、
「先に事情を説明に領主様の館に行きたいのですがー、私は館の方とは面識がありませんのでー、道案内も兼ねてどちらか一緒にきてもらえませんかー?」
宿の主人と二人の常連客に声をかける。彼らは一瞬顔を見合わせたが、主人が口を開いた。
「移動手段は?」
「馬がーありますよー。後ろに乗ってーくださいねー」
「そうか……だが、二人きりで狙われたらな」
「私が先に周囲を見て、囮になります」
サキス・クレアシオンの申し出に、細身の常連客の男が手を挙げた。
「……俺が行く。女の子ばかりに無理させられねえからな」
「頼む。この斧は持っていけ」
頷き合うと、細身の常連客はもう一人の客から斧を受け取って背中に括り付けた。
真っ先にサキスが宿を出て行くと、桜は夫の方を見て手を振り、
「じゃあエル、私が先に行くーですよー。……そっちも気を付けてー」
常連客と共にサキスに続いた。
せわしなかった。
真っ先に夜に飛び込んだサキスは、他の特異者と同じく宿に到着したところだった。
ピンクの薔薇の領主・エーヴリルにメイドとして仕えるため――ピンクの薔薇を咲かせるために村に留まろうと、宿を取って今夜は寝るばかりのはずだった。
(仕方ない、宿を守るには……急いで獣を見つけること)
扉を閉めるなり、サキスは“スプリングリム”で屋根の上に飛び乗る。
ベンはすぐそこまで獣が来ていると言った。
宿から漏れ出る光を便りに“夜目”で周囲を見まわすと、地面に血の跡を見付けた。それは獣にとって格好の道しるべだろう。
血の続く先に目をやると同時に、傍の民家の影から獣が三匹姿を現した。
ベンが“獣”と言ったそれは、姿かたちは、地球でもよく見る灰色と白の毛皮を持つ狼だった。しかしそれがただの狼であるとサキスにも断言できない雰囲気を持っていた。それでベンも狼と言わなかったのだろうか?
獣たちは血に本能を昂ぶらせることもなく、ゆったりと走って来る。ベンが逃げられたのはどうやら相手にその気が十分でなかったお蔭でもあるようだが、逆に気味が悪い。
ギィ。
……サキスの足元でドアが開き、桜と常連客の一人が姿を見せた。
「前方に三匹、裏に回れ」
サキスは桜たちに告げると、人の姿を認めて足を早めた獣たちが宿の入り口に迫った時、“アイズフラッシュ”の閃光を浴びせた。
夜は一瞬昼になり、キャン! と声を上げて獣が怯む。
サキスは地面に飛び降りると、獣を宿から引き離そうと走り出した――宿の中には血の匂いがする怪我人がいる。
自分たちを攻撃した人物を認めて飛びかかって来る獣たちを、サキスは自身に引き寄せようとする。
が、獣の足は速い。
(避けられ……くっ!?)
一匹を“スピリットスレイヤー”で振り払おうとすると、獣は引っ込み、横合いから別の一匹が腕に飛びつこうとする。
最初の作戦通り、サキスは薪割り小屋の屋根に飛び乗って避難し、再度の“アイズフラッシュ”を浴びせる。
サキスの耳に遠ざかる馬の音が聞こえ、目の端で揺らめく光が共に遠ざかっていく。
「しっかりー掴まってーくださいねー」
桜は背後の常連客に言うと、愛馬・ティーガの手綱を握った。
街灯もろくにない村だ、夜の闇は想像以上に深い。手元の光源はティーガの首に下げたカボチャのランタンと、常連客に持たせた松明だけ。
先が見えない。下手をすれば柵に突っ込んでしまいそうだ。
それでも“疾風”をまとった桜は、馬を領主の館に向けて走らせた。風を切る音に混じる常連客の道案内を聞きつつ、なるべく一直線に。
“感知”で感じられる気配は敵とも味方とも判然としないが、なるべく避けて。
「……獣はー、どこに行くんでしょうねー」
それでも初めての村で、夜道を走らせるのは難しく、館に向かっている獣とでくわした。
……一匹だけだ。
桜は落ち着いて馬を後退させると、予め動くことを確認しておいたフォトン・ドラグーンの銃口を向ける。
収束した光の束の“ダブルショット”による連撃が、馬の足を目がけて飛びかかって来た獣を撃ち抜いた。
「……凄いリボルバーだな、弾が光って見えたぜ」
息を呑む常連客は、見慣れぬ銃と獣と双方に恐れを抱いたようだった。
「さ、行きますよー」
フォトン・ドラグーンをしまうと、桜はゆるめた手綱を引き締めて夜の村を駆け抜けた。
――馬を走らせること暫し、二人は無事に屋敷に到着した。
「ここはお願いしますねー」
「……はい、……領主様! 領主様!」
常連客が何度か扉を叩くと、三十代くらいのテールコート(燕尾服)の使用人が顔を出した。
「当家にどのようなご用件でしょうか」
「領主様にお話が!」
「失礼ですが、お約束は」
「悪いが、こっちは急いでるんだ! ああ、あんたから伝えてもらってもいい、村に得体のしれない獣が出て……」
使用人は眉をひそめると、二人を玄関の中に招き入れた。
「こちらでお待ちください」
表情硬く告げると、小走りに去っていく。
程なくして、こちらも小走りに青薔薇の領主
オンディーヌが姿を現した。簡素なドレス姿は、客に桜が「あの方が」と教えてもらわなければ、使用人と思ったことだろう。
「領主様、夜分失礼いたしました。実は村に獣が……」
常連客が手短に宿で起こったことを説明すると、桜が付け加えた。
「治療の用意をお願いできればー。でもこっちにも獣が来るかもしれないのでその準備もしたほうが良いかもしれませんー。
雨戸と、馬車がきたら扉も閉めて。戦えない人は外に面してない頑丈な部屋に」
「そんな……」
「戦える武器のある人も単独行動は避けた方が良いかとー。……他の村人にも外に出るなと伝える方法があれば良いのーですがー……」
オンディーヌは絶句しながらも、二人の説明に何度も頷き、
「分かりました、もっと詳しい話をお聞かせください。どうぞ奥へ」
夜、薔薇の貴族たちが帰ったにも関わらず、屋敷の明りはまだいくつも残っていた。廊下に灯るランプの明りに、オンディーヌの顔が青ざめた顔が照らされている……。
*
「……よし、いいぞ」
サキスが囮を引きつけている間に、宿ではベンを運ぶ一同が遅れて出発していた。
中央には担架に乗ったベン。主人の発案で廃材とリネンで作った即席だが、ないよりもかなりマシだった。担架を主人と宿に残ったもう一人の常連客が運び、特異者たちが護衛を担当する。
無事に宿を離れた一行だったが、いつの間に村に入り込んでいたのか、森の方角からこちらに迫って来る黒い影がある。近付くにつれそれが狼――“獣”であると判明した。
「火を怖がる本能より、人を喰い殺したいってのか!?」
悪態をつく常連客を庇うように、絢乃が前に出た。
「殲滅は考えないで、足止めを。可能な限り急ぎましょう」
絢乃が引き金を引いたライフルから放たれた弾を、すばしっこい獣がかわしていく。跳躍。眼前に迫る獣に焦る心を落ち着かせながら照準を合わせると、何発目かの弾丸が鈍い音を立てて獣にめり込んだ。跳躍の軌道は彼女に達することなく頂点で断たれて、獣は地面に転がった。
……まだ生きているが追ってはこれまい。
絢乃は別の獣に狙いを定めた。
叉沙羅儀 式は絢乃とベンを挟んで反対側に回り、ブラックナイフを抜いて防御の姿勢を取った。
(敵は、一匹二匹じゃないみたいだねぇ)
唸り声が聞こえたかと思うと、闇の中から新たな獣が飛び出してくる。目が夜に慣れていなければ闇そのものに殴られたと感じていたかもしれない。
獣の牙を何とかナイフで弾き返すと、着地したばかりの獣は唸り声を上げて遠巻きにしていたのも束の間、再び飛びかかってきた。
式はそれを避けると、あくまで担架を背に向き合う。担架は進む。式も、獣を警戒しながらも遅れまいと着いて行く。
着地した獣が三度式に襲い掛かろうとするところを、疾風のような一撃が獣を横から突き飛した。
式の目に、“疾風”をまとった
世良 潤也のホライゾンランスが見えた。
「こんなに凶悪な獣がいるなんて……村の人たちや
キーラは無事かな」
「まだまだ来るわよ。油断しないで!」
潤也の呟きを諌めながら、
アリーチェ・ビブリオテカリオが“泥の手”を錬成する。泥の手は奥で遠巻きに付いて来る獣の足を掴んだ。
「これで飛び跳ねられないわよ! これでも食らいなさい!」
獣は泥から足を引き抜こうとするが、その前にアリーチェは戦乙女の弓を構えて矢を放つ。
獣が絶命する横を潤也が駆け抜け、彼のホライゾンランスに天使の“エンジェルラッシュ”が重なって見えた、かと思うともう一匹の獣を屠った。
アリーチェは担架の側に戻って来た潤也に向き直ると、先程の疑問に答えた。
「キーラなら領主様のお屋敷、ここより安全だわ」
キーラの顔見知りでもある二人は、遅れて<薔薇の庭>を訪れ、彼女から一通りの事情を聞いていた。その合間にアリーチェがハーブ店をお休みすることを残念がったという余談を交えながら、村を見て回り、そして宿で事件に出くわしたのである。
「……そうだよな。帰って来た人がほとんどいないって聞いてたから、余計に心配だったんだ。元気そうで良かったけど」
「あたしもあんたも無事に帰れるって保障はないけどね」
帰ってきていない者のその原因が何にあるかはまだ不明、なのだ。案外定住してしまっているだけなのかもしれないが……。
「……ま、キーラなら<ニワトコ通り>のお店を放っておくってことはないでしょうけど。あたしもあそこのハーブが好きだし」
複雑な表情の潤也にアリーチェは彼女なりに気遣いながら付け加える。
「村人の方も、とりあえずこの怪我人から守らなきゃね」