子犬のころは、普段なら
水城 頼斗の懐や傍にいるのに、今日は
遠近 薫のところから離れなかった。
「ふふ、ころちゃんはあの時のらい兄のこと、覚えてるんじゃないですか」
「じゃあ、ころちゃんはここね」と薫は自分の肩に子犬を乗せる。
「……すまないな。ここは、俺の場所なんだ」
肩に乗せられてちょっと不満顔のころに、
遠近 千羽矢は繋いだ薫の手を見せる。
「ったく、今日は俺も素面だし? そう何度もべろべろで来ないってば!」
頼斗もなんだか今一つ落ち着かない様子ではあったが、遠くに山桜が見えてくると、気を取り直す。
「ほら、もう着くぞー!」
口元にニヤリと笑みを浮かべると、頼斗は猛然と走り出した。
「んむー、まけないもーんっ! いっくよー、うるとらはいぱーだーっしゅ!」
突然走り出した頼斗を追いかけ、
無月 夜が慌てて駆け出す。
『高龗神の羽衣』の裾を翻して駆ける夜の姿に、慌てたようにモゾモゾと動き出す子猫の浅緋を、苦笑いしながら千羽矢が地面に下ろしてやる。
浅緋は、同じ様に薫の肩から下ろしてもらったころが、いつもと違い一目散に走ることはせず、先を行く頼斗の後をのそのそと行くのを、不思議そうに見ながらついて行く。
「おーい桜ー、来たぞー!」
頼斗が『咲き誇る枝先』を掲げながら、大声で呼びかける。
ふわり……と、季節外れの花弁が舞い上がったかと思うと、山桜の精が大樹の下に姿を現した。
「さくらさま、こんばんはーっ☆」
『山桜の花簪』を揺らしながら、勢いよく飛び込んでいく夜を、山桜の精は抱き止める。遅れて到着した子犬と子猫も、嬉しそうに二人の周りをくるくると回った。
「こんばんは。お元気そうで何より」
二人にふんわりと笑顔を見せながら挨拶を返し、山桜の精は夜の髪を撫でた。
「こんばんは、桜様。らい兄がごめんなさい……もう」
山桜の下に着いた途端、特等席とばかりにその根元にどかりと腰を下ろした頼斗に、呆れた様な声で薫が言う。
「……こんばんは、桜さん」
「こんばんは。相変わらず仲が宜しくて何よりでございまする」
千羽矢と薫の手が、いつも通り確りと繋がれているのを見て山桜の精は微笑む。四人の胸元に『桜色の勾玉』があるのを見て、無事である様にという祈りが少しでも彼らの守りになっていることを嬉しく思う。
千羽矢は大樹の下で『緋弓箭』の弦を弾き、【鳴弦の儀】を行う。これからも山桜が幸せであるように祈りを込めて。
弦の音が静寂に響く。
その余韻に暫し聴き入った後、各々山桜の根元に座る。
千羽矢に寄り添うように腰を下ろす薫に、子猫と子犬と戯れる夜、ゆったりと月を見上げる頼斗。いつからかこれが「当たり前の光景」になっていることに気付く。
「今日はなに話そうかなぁ。お花見から色々あったから……たまには桜のことも聞きたいな? ほら、月に関することは……いやでも難しいか……」
頼斗がぶつぶつと何やら言って相手をしてくれない様なので、代わりに千羽矢の傍らに座った薫が夜やころと浅緋の面倒を見ている。
千羽矢の肩に頭を預け、そっと子どもたちを撫でたりしている様子に山桜の精が目を細めているのに気づき、薫は頬を染め、幸せそうに微笑み返した。
「……そうだな。桜さんだけが知っている、夜桜の思い出を……俺たちも見てみたい」
頼斗の呟きを拾って、千羽矢が言う。
「あたしも! あたしもさくらさまのおはなしききたーい!」
夜も、ぐっと身を乗り出す。
「相棒や夜も聞きたがってるし、俺達みたいに夜桜見に来る人とか、後は……まぁなんでもいいよ! こんなことあった、くらいで。友達の話は俺達も聞きたいからさ、な?」
千羽矢と夜が興味を示したのを受けて、頼斗は山桜の精に話を促した。
「夜桜の思い出……ですか」
山桜の精は、月を見上げた。
ぽっかりと星の河に浮かぶ丸い月は、静かに輝きを増している。
「永きにこうしておりまする故、其々に深き思い出もありまするが」
何を話せば良いのかと、山桜の精が思案している様子が窺える。
「……星の降る夜、花の降る夜。老いも若きも、私の下で良き時を過ごされるのは、とても喜ばしいことにござりまする」
きっとどれも大切な思い出なのだろう。静かに微笑む様は、とても幸せそうだ。
「ねーねー、あたしとおんなじくらいのこも、さくらさまとたーっくさんおはなししにきてたー?」
夜がそう訊ねる。
「ええ、おいでになられましたよ。幼き頃より幾たびも訪われて、立派な呪禁師になられた今も、時折花を見に参られるような方もおいでになられまする」
ふと、思いついたように山桜の精は一旦口を閉ざした。
「そういえば、京の町からの古道具の付喪と、このあたりに住まう妖が月見に来まする。古道具は別にしても、常々より妖の子とは良い遊び相手で、明るいうちなどは人の子らと木の周りを駆け回るなどして……」
ついとその白い手を上げて、周囲を指し示した。
楽しそうな心持ち弾んだ声で、山桜の精は語った。
「えっへへー、そっかー。あたしもさくらさまがだーいすきだから、きっとそのことおともだちになれるねっ!」
山桜の精の様子に、夜は嬉しそうだ。
そうして、彼らは、確かに見たのだ。
山桜の精の指すその先に。
天には星。
地には花。
風に舞う桜吹雪の中、山桜の元に集う人の、妖の、付喪の、心浮かれる様の幻想が。
人の子の、妖の子の、笑い声まで聞こえるようで。
花びらとともに果敢無く消えゆく、数瞬の夢——。
「いつか……、いつか古道具の付喪の鳴らす可笑しな楽の音など、ともに聴けたらさぞ楽しかろうと」
気難し屋の付喪が、そうそう人の前にて寛ぐなど難しいことだとはわかっているのだが、あの調子っぱずれの曲は言葉に表せないほど愉快なのだと、山桜の精は言った。
「そうか……。いつかそんな日が来るといいな……」
想像しただけで、知らず笑顔になる。
「いつか」の約束をして。
今夜もまた「指切り」でお別れを。
——絡めた指に、笑顔を交わして——