■“名無しの森”と『先生』
――目を覚ますと、そこは先ほどいた私室ではなかった。
誰もがそう印象を受けるほどの別空間。周囲の距離感がまるで掴めず、かといって行き来ができない透明な壁のようなものがあり、大きな牢獄とも感じ取れる場所であった。
「……ここから奥へは進めそうにないですわね」
透明な壁を伝うようにして周囲を探っていた焔子がそうため息をつく。奥へ進めそうなところがあればよかったのであるが、それに応してそうな個所が見受けられなかったようだ。
「出入口も無し……これは本格的にまずいような」
詩穂も空間の出口がないか調べていたようだがそれに該当するものは無し。パートナー四人娘もあれこれと動いてくれてはいるが、結果は芳しくないようである。
「やれやれ……今日の占いの結果は散々だな。水難の相だけかと思ったら、受難の相じゃないかこれは」
「……猫も占いとか見るのですか」
チーシャによれば、本日の占いは“猫座のあなた:水難の相、並びに赤ちゃんに延々と泣かれます! 扉をこじ開ける力を用意しましょう”……とのことらしい。それをチーシャが自慢気に語ると、詩穂は頭が痛くなりそうになってしまった。
「あら、これは……」
と、その時。アーニャがあるものを発見する、それは、この空間内で唯一可視化されているレンガ調の地面に描かれている魔法陣の存在であった。
「この魔法陣……魔力が通ってますわね。……もしや、これが詩穂様が感じ取った罠なのでは?」
「もしそうなら――この空間を形成しているモノでしょうし……うん、壊そう」
魔法陣をさっと調べてみた焔子と詩穂が、これが唯一の手がかりであり、魔力の流れを断てば何かあるだろうと判断する。さっきから踏んでいるのに魔力が途切れないことから、物理的に供給を断つ手段として……一部破壊を提案した。
「おいおい……やるんだな、今ここで」 チーシャはそう言いながらもにへらと笑っている
「詩穂様をお守りするためなら、お手伝いします!」 アーニャは詩穂のために守護を行使するつもりだ!
「やるしか……ありませんですわね」 まおが続くようにして、やる気を出している
「その案、よいちょまる! 一斉にやればいけそう!」 ロザンナも腕をグルグル回して意見に同意している
「……私は、別なところを」 リゼクシーは皆とは少し離れた場所から参加のようだ
――全員が所定の場所に着く。契約者ならば軽く攻撃を入れるだけで壊せそうな雰囲気を持っているその床へ……それぞれのタイミングで、一斉攻撃を加えていった!!
{big}ズゥゥゥ……ンッ!!!{/big}
非常に重い音が空間内に響き渡る。攻撃に対しての脆弱性を持つ床であるが、全体にひびが入った程度で済み、崩壊の心配はなさそうであった。
「やりましたかしら……?」
焔子が魔法陣の壊れ具合を確認すると、魔法陣を形成していた線の大半がその機能を無くして、帯びていたか弱い光すらその輝きを失っていた。……どうやら、魔法陣の活動を止めることに成功したらしい。
その時であった。見えない壁のその向こう――距離感が掴めない異空間のその先に立つ、人影が姿を現す。その気配に気づいた契約者たちがそちらを向くと――そこにいたのは、チーシャの見知るヴァルキリーの姿であった。
「……“名無しの森”が壊されましたか」
「名無しの森……?」
……『先生』の口から出てきた、“名無しの森”というワード。そして、名の意味を問う契約者たちへ、翼人は雄弁に語りだす。
「怪異の一つですよ。私が“あれ”に魅了され、無から“上書き”した最初の一つ――この怪異の周辺、この場合はナーサリィ全体ですが……その周辺に立つ全てのモノから、“上書き”した者が任意に決めた内容を記憶から消して認知できなくする怪異。それが“名無しの森”です。それが壊された今、奪われた記憶は全て戻った……そうでしょう、チーシャ?」
『先生』の冷たい視線が、チーシャへと向けられる。……そしてチーシャは、にへらと笑ったまま――その者へ“名”を告げた。
「――ああ、そうだな。頭の中がスーッと晴れやかになった感じだ……“ルイス・カーロン”」
「ルイス・カーロン……それが、『先生』の実際のお名前ですのね」
以前に依頼を受けた際、『先生』という名前だけは聞いていた焔子が、視線をルイスの方へと向ける。他の契約者たちの視線をものともしないルイスは、話を続けていく。
「なぜこんなことを……って顔をしてますね。いいでしょう、お教えします。――すべては、“あれ”の自己満足による悪戯にすぎません。地上からパラミタへ戻ってきて、旧家の書物から一族の滅亡のことを知り……絶望していた私へ、“あれ”が……あの悪魔が囁きかけてきたのです。『一族の栄光を取り戻さないか?』と」
「悪魔……おい、まさか」
チーシャが今までに見せたことのない焦りを見せる。詩穂たちは事態を掴めないまま、二人の話に注目する……。
「そのまさかです。……先祖の日記に書かれていた願望器。それに私は願ってしまった……『一族の栄光を取り戻したい』と。そして、それが過ちだと気づいたのは――その“名無しの森”を産み出してしまった時。しかし、もうその時にはすでに……願望器に身体と意識を乗っ取られていたんです。何とか抵抗は続けていたのですが――どんどんと抵抗できなくなってて、今はもうあまり持ちそうもありません……」
「そうか……じゃあ手短に聞く。“一族の栄光を願った結果、どういう形で願いを叶えさせられている”?」
チーシャのその言葉に、最後の力を振り絞りながら、乗っ取ろうとする意識に抵抗しているルイスは苦痛そうな顔を浮かべながら返答する。
「――栄光を取り戻すため、パラミタの頂点に立とう、と。パラミタの新たな女王を擁立し、女王から直接庇護を得ればいい、と。そのために……私はアリスを、父の友人の娘を女王にするための人柱にしようとしてしまった……!!」
「ちっ……あいつらしい、回りくどい回り道だぜ……過程をただただ楽しんでやがる」
絶望していたルイスをかどわかし、願望を歪んだ形で叶えようとしたその存在に、チーシャは舌打ちする。その存在を認知しているのか、詩穂がチーシャにそれが何なのかを聞こうとしたその時――。
「ん……赤ちゃん……?」
詩穂の視線の先で、赤ちゃんが姿を現す。だがその赤ちゃんの顔は豚の顔であり、その白さから怪異であることをすぐに察知できた。
だがその察知と同時に――赤ちゃんがぐずりだし、そして大きな声を上げながら泣き始めた!
「くそ……君たちをここで片づける気ですか――チーシャ、皆さん……あとはお任せしました……あと、アリスには申し訳ありませんと――」
“豚顔の赤子”の泣き声で掻き消えそうなその言葉を言い切る前に、ルイスが残った力を使って異空間の一部へ働きかけた瞬間――その姿は何かに飲まれるように消えてしまった。
「チーシャ……」
「聞きたいことがあるなら、我と一緒にここを脱出してからだ。……あの赤ん坊をどうにかできないか? うるさくてかなわん」
焔子の言葉に、チーシャはそう答える。ここで考察するよりは、脱出を優先すべきと猫の直感で感じ取ったのだろう。
チーシャの占い内容を覚えていたのか、すでに詩穂が赤ちゃんの対処に回っており、《融和の白狼》に【サンドマンサンド】を歌ってもらい、何とか泣き止まないかと奮闘している。
「……豚に聞く耳なし、なのですかね」
アーニャがそう言うように、豚顔の赤子は泣き止む気配を見せない。まるで激流のような大量の涙をとめどなく流し――異空間内へ大量に流れ込んでいく。
「……あれ、涙が……溜まってきている?」
リゼクシーが気づいた時には、すでに空間内に涙が全員の足首ほどまでに溜まっていた。変わらず、豚顔の赤子は懸命に泣き続け、異空間全体を涙で沈めようとしている……!
「これが水難の相と赤ちゃんに泣かれるなのか……このままだと我の毛並みがしんなりしてしまう!」
「言ってる場合ですの!?」
若山弁炸裂のまおのツッコミに我関せずに、チーシャが何かないかと周囲を見渡す。その間にも涙の浸水がかなりの速さで続いており、ひざ近くまで溜まりこんでいた。
このままでは水責めの刑になってしまう――それを防ぐために、詩穂は溜まっている水を利用して【氷術】でシェルターを作るように水を凍らせていった!
「これで少しは時間を稼げるはず!」
「――あ、これ! みんな、見て!!」
と、そこへロザンナがあるものを発見する。それは、空間のひずみ……というよりは、ひび割れみたいなものであった。
「……ルイスの奴、もしかして去り際にこれを仕込んだのか」
先ほどのルイスとの会話を思い出し、なるほどと頷くチーシャ。そしてすぐに、契約者たちへ振り向いていった!
「これに攻撃を加えれば出口になるはずだ! さっきの魔法陣壊しより固そうだが、やれそうか?」
「――もちろんですわ。さらに進むためならば……この程度、どうってことは!」
「先ほどの扉開けを一度代わってもらったおかげで、もう一撃分の《レベル60ロングソード》があります。全力で斬りつければ――いけます!」
先ほどより固いと思われるそのひび割れに対し、焔子と詩穂がそれぞれの得物(詩穂はロザンナから受け取った物)を構え、異空間突破をすべく――息を合わせていく。
「ヒビが……!!」
リゼクシーが様子を見ていた【氷術】で作られた壁が、水圧に耐え切れなくなってきてるのか、急激なひび割れを見せていく。もしこれが割れてしまえば、壁の外側に溜まっているであろう大量の涙水が一気に押し寄せてくるだろう。
「――今ッ!!」
「はぁぁぁッ!!」
猶予はほぼなく、一発勝負。焔子は《【神格】オブシダンソード》を使っての【一刀両断】を、詩穂は《レベル60ロングソード》を一気呵成に振り下ろしての強力な一撃を――同時に、空間のひび割れへと繰り出していく!!
《レベル60ロングソード》が限界を迎え、崩れ去るのと共に――ひび割れもまた、強力な同時攻撃を受けて崩れ落ち、空間の先――ルイスの書斎が映し出された!
「いまだ、みんな飛び込め!!!」
大きな音を立てて【氷術】の壁が崩壊すると同時に、怒涛の激流が契約者たちへと押し寄せようとしている。チーシャの叫び声に合わせ、全員が光漏れる空間の裂け目へと飛び込みきると――異空間は浸水しきり、それと共に豚顔の赤子も溺れ消えていった……。
――どれくらい経ったのだろうか、全員がその意識を取り戻すと、周囲を慌てて見渡していく。
「どうやら……戻ってこれたみたいですわ」
気が付いた場所は、罠が掛かった場所と同じ……ルイスの私室。まおの他にも、この場で罠にかかっていた全員が無事に戻ってこれたようだった。時計を見ると――さほど時間が経っておらず、夕方に差し掛かろうとしている。
「一時はどうなるかと思ったけど、みんな無事みたいだね!」
ロザンナも全員無事なことに一つ息をついていた。……その中で、焔子と詩穂はチーシャへルイスのことを訪ねている。
「無事に戻ってこれたことですし、説明していただけますとありがたいですわね」
「あの人が言っていた願望器ってなんのこと?」
二人からの疑問ももっともなことだ。それを冠言葉としたチーシャから、その場にいる全員へ“願望器”に関する話を始めていった。
「記憶が戻った今なら言える――あいつの言っていた“願望器”……そいつはな、
“一冊の童話集”だよ」