■悪夢の黒い門(1)
「本当ですわね。眠れなかったらどうしましょう」
くすくすと笑いながら、
松永 焔子はふと立ち止まり周囲を見回した。
「……?」
いま、誰かと話していたような気がするのだが、人の気配などまったく感じられない。
ピョン
唐突に、小さく可憐な黒うさぎが現れた。
と同時に焔子は、自分が右も左も天も地も、もっといえば前後さえあやふやな、黒一色の空間に立っていることに気づく。
どこにも光源など見当たらないのに、自身の体や黒うさぎをはっきりと目視できる。
「不思議な場所ですこと」
興味津々で周囲を見回す焔子を、黒うさぎは大きな黒い瞳でじっと見上げている。
「おおこわい。かわいい見かけとは大違い。なんて闇深い瞳をなさっているのでしょう」
黒うさぎはなんのリアクションもないままに、くるりと焔子に背を向け走り出した。
そして焔子の前には、大きな真っ黒い門が、かたく門扉を閉ざしそびえ立っている。
「ああ……そうです。私、これを開かないといけないんですわ!」
黒うさぎは軽々と門を飛び越えた。
「えいっ!」
迷うことも恐れることもなく、焔子は一気に門扉を押し開いた。
自動ドアが閉じる音が、真後ろで聞こえ――焔子は映像・音楽ソフトの有名レンタルショップの店内に入っていた。
いくつもの棚に、きちんと分類されたDVDやらブルーレイが並んでいる。
それらを眺めながら歩いていた焔子は徐々に青ざめ、
「……ないですわ? ここにも……こっちにも……ありませんわ!」
最後にはがくんとその場に膝をついた。
「サメ映画が1つもない……なんて恐ろしい世界でしょう!!」
焔子といえば、唯一無比に等しい“サメ系アイドル”
世界のためにサメと共に歌いサメと共に闘い、人々に夢とサメを見せて来た。
うなだれる焔子の前に黒うさぎが現れ、映像ソフトの山をドドンと積んだ。
それらはどれも、うさぎが印象的に登場する名作映画。
「うさぎ映画はあってもサメ映画はないと、おっしゃりたいのですわね?」
焔子はゆらりと立ち上がり、ビシッと黒うさぎを指差した。
「こんなことではへこたれませんわよ! シャァーク! じゃなかった、
Reverse!」
ザザーン!
周囲の空間に幾筋ものうねる海流が巻き起こる。地面も天井も空中も構わずうねり流れるその海流には、たくさんのサメが泳いでいる。
いま焔子の真上を泳いで行った大きなサメが、海流から飛び出し、レンタルショップの棚の中にドカンと飛び込んだ。
するとそこには、毒々しく派手派手しく飾られた、かなりワイドな『サメ映画コーナー』が出来上がっている。
「素敵! 見たかったサメ映画が目白押しですわ!」
ゴオオォォォッ!
なおもうねりを上げているサメの海流が、黒うさぎを飲み込んだ。
「世界は陰陽の調和で成り立っています。そして映画の世界は、サメ映画と大作の調和で……
どちらが欠けてもいけないのですわ!」
「ここはお前の夢の中。そういうことにしておこう」
黒うさぎはそう言うと、
「見事だったぞ」
サメの海流に流されて消えていった。
門を開いた
結笹 紗菜は、病院の診察室で身長を測っていた。
測定バーが頭上で止まり、機械的な音声が結果を読み上げる。
『178センチ、デス』
「えっ!? また……伸びた?」
紗菜の身長は、172センチのはずだ。
「すごい! また成長しましたね」
看護師たちがにこやかに紗菜を取り囲んだ。
「いやっ。これ以上伸びるなんて……」
紗菜は他のアイドルより背が少し高いことを、とてもとても気にしている。
まだまだ伸びるなんて、耐え難いことだった。
「あらぁ、紗菜さんはまだまだ成長できますよ?」
「間違いないですよぉ」
紗菜の視界が、ぐいんと数センチ高くなる。
『188センチ、デス』
「ほーら、ね?」
「次の計測では2メートルになってるかもしれないわね」
「楽しみですね~」
笑いながら看護師たちが去っていくと、入れ替わりに紗菜の大切な人――
奥 莉緒がやって来た。
「紗菜、また大きくなった?」
「ちがっ……これは何かの間違いなの」
紗菜は、莉緒から目をそらしている。
莉緒が今どんな顔をしているか、確認するのが心底怖かった。
(莉緒……せっかく仲良くなれて、これからも色んなことを一緒に経験したかった。
でも私がこんなに大きかったら怖いよね? 嫌……だよね?)
ぴょん
黒うさぎが舞い降り、静かに紗菜を見上げてきた。
「相手を信じられないから直視できないのだ」
そんなはずがない――そう強く思った紗菜は、莉緒をまっすぐ見つめる。
(莉緒はどんな私でも手を取ってくれる。仲良しでいてくれる)
「Reverse!」
病院特有の白い空間は、ドラマティックな眩しい光となって世界を満たし、さらに紗菜と莉緒を包み――その光はいつしか、一対の白いドレスになっている。
「私……莉緒と会えて本当によかった。貴女がいるから私もがんばれるよ。莉緒……愛してる」
「紗菜」
まだまだ続く光の氾濫の中、二人は恋人同士のように見つめ合っている。
「これはお前の夢。あとは好きに過ごすがよい」
言い残すと黒うさぎは光に飲み込まれ、あっけなく消えてしまった。
(さてと。私は先に行きますよ、シンさん)
これは夢だと強く覚醒しながら、
示翠 風は黒いうさぎを追いかけ門を押し開いた。
目の前に広がったのは、大きなターミナル駅の正面口。
朝のラッシュ時のようで、男も女も学生も社会人も、誰も彼もが無表情の急ぎ足で風の前を通り過ぎていく。
人の流れは駅に入るか駅から出てくるかの二方向のみ。例外などゆるされない雰囲気だ。
(なるほど……)
冷静に景色を見つめる風の前に、黒うさぎがぴょんと降り立った。
「見るよりも、感じたほうが良いだろう」
次の瞬間、駅も人波も消え去り、いくつもの情景が風の周囲に映し出された。
風自身忘れていたような些細なものから、強く記憶に残っているものまで。
その時々に抱いた感情も、こころの中に生々しく湧き上がる。
もちろん、あまりいい気分ではない。
「これはなかなか……ぶっ壊しにかかってきてますねぇ」
やがて風の周囲には、がらんどうで何もない、だだっ広い虚無空間が広がった。
それは風にしてみれば、いま黒うさぎに見せられた数々の情景と同じだった。
変わらない、動かない、つまらない――風にとっては、それこそが悪夢だった。
「ほんと、ツマラナイ世界。
平和、調和、皆同じに……見ているだけで嫌気がさす。Reverse」
さりげなく呪文を口にした風は、広がる虚無空間のあちこちを指さした。
ドン! ドン!
指さされた場所から虚無空間は破れ、綻んでいく。
ドン!
完全に剥がれ落ちた虚無の向こうに、先ほどのターミナル駅が垣間見えてきた。
相変わらず、人々は忙しなく無表情で歩いている。
「♪~」
そして風は歌を口ずさむ。
歌は虚無の綻びを突き抜け、やわらかい風になって人々の周りを駆け抜けた。
その気配に気づいた者たちが数名立ち止まり、周囲を見回す。
「♪~」
ドン! ドン! ドン!
止めることなく虚無を破壊しながら、風は歌う。
綻びはどんどん大きくなり、歌と風に気づき立ち止まる者も増えてきた。
「♪~」
風は、歌い続ける。
「お前はその歌で、どんな新しい世界を作り上げる」
黒うさぎは言い残し、風の歌がうんだやわらかい風に巻き取られ、どこかへ飛んでいってしまった。