大世界セフィロト。
世界は神の怒りに触れ神判が下り、人々は神より与えられた試練に今なお試されている。
ダークロイド・ラビリンスはセフィロトに多く点在している教会のひとつに訪れていた。
「お待たせしました」
セフィロト特有の一礼と挨拶を教会内にいるだろう相手と交わし扉を閉めた
エドルーガ・アステリアは、教会の外壁に背中を預け顔を上向けているダークロイドへと近づく。
「そんなに待っていないよ」
「はい。けれど私の用事に付き合わせてしまったので、お待たせしました、と」
エドルーガが繰り返して言うものだから、ダークロイドはゆっくりと目を閉じて、開けた。
何かを区切るように動作を挟んだ彼女にエドルーガが「帰りますか?」と次の予定を促すわけでもなく伺い、対するダークロイドはそう多くない荷物を一度改めようと下げかけた視線を持ち上げる。
赤色の瞳を向ければ、知っているいつもの笑顔がそこにあった。
怒りも憂いも差し込まない、ただ一色と楽しげに微笑むばかりの彼に同伴する側である彼女は短く吐息する。
「用事は終わったんだろう?」
「はい」
「なら長居をする理由はない」
確認の質問にエドルーガが頷くのを見て、ダークロイドは体重を預けていた外壁から背を離した。
「その前にひとつ。その、……考え事をしていたのですか?」
そのタイミングを狙っていたかのようにエドルーガが問い投げかける。質問の声に、つぃ、と肩でも押されたが如く、ダークロイドは再び教会の壁に背をつけることになった。
「空を眺めていたように見えたものですから」
続くエドルーガの言葉に、変わることのない無表情をダークロイドは微かに揺らす。
気持ちは空を見仰ぎ、視線はセフィロトの風景を背にした錬金術師に据えて「エド博士」と彼を呼ぶ。
「時々思うのだ……」
切り口はまるで他人事めいて。
「今この瞬間、ワタシが感じている感覚や感情は、偽物なのだろうかと……」
世には、人工の空が在ると聞く。
そしてダークロイドはそれを事実として知っている。
「世界そのものが偽物だらけなら、 ……自分が見てきたもの、感じたものさえも偽物なのだろうか……と」
気づくと、いつの世も世界の空は、と浮かんでしまった疑問は連鎖する。答えの無い反響が空洞の中で無意味だとわかっているのに妙に綺麗な旋律を奏でてしまって、そこに理由を当てはめようとしている。
でも、その言葉が、思いつかない。
今ここでセフィロトという世界の地に立ち、吹き渡る世界の息吹とも言える風を肌で感じ、“そら”の見果てなさに圧倒されている。そんな感覚(私)すらも語る(騙る)だけのものなのだろうか。
偽物を与えられ、偽物の感情を植え付けられているだけなのではと、独白零す彼女にエドルーガは頷く。
「確かに偽物だらけの世界というのはありましたね」
世界渡りの特異者となってからは特に比較対象は後を絶えず判断材料ばかりが増えていく。
「もしかしたら、こうして貴女が見上げている空も、感じている風も、人工的に作りだされた可能性はありますよね。私達が知らないだけで」
けれど。
「しかし、貴女が今まで見てきたもの、感じてきたもの全てが偽物と断定するのは些か早いのではないでしょうか」
声は疑問形に語尾上がるものではなく、促すように穏やかなものなのでダークロイドは僅かに首を傾げた。意見が聞きたいんだと無言で待つ彼女にエドルーガは「参考になるかはわかりませんが」と望まれたままに続ける。
「世界そのものが偽物であっても、彼女が結んできた目に見える信頼、目に見えない感情は生きている限り本物であると、私は貴女と過ごしているだけにそう思いますよ」
「参考というより確信しているといいたげだな」
「受け取り方はご自由にですよ」
意見さえ本物か偽物かと判断するのは受け手側次第。少なくともこの場の意見という形の自分の感想をどう解釈するかはエドルーガは少女に任せるつもりだった。押し付ける気はない。彼は彼女の心の有様を知りたいだけだからだ。
「そうか。そう……だな。」
答えは未だ見つけられないのだろうけど、自分の疑問が晴れゆくようで。
「例え偽物だらけでも、自分が掴んできたものは、――」
――“本物”なのだ。
ダークロイドが確信し納得し、頷く。心持ち足取りも軽く歩き出す彼女の背中を眺め、
「私が貴女を観察対象という、一番のお気に入りという感情も、間違いなく本物ですよ」
“ダークロイド・ラビリンスという形”の経過観察を見守る者の囁きはセフィロトの寂しげに啼く風に攫われて彼女には届かなかった。