生寄死帰(2)
死の波動に対し戸惑う冒険者たちの中で、いちはやく動き出す巨大な影が存在した。
焔生 たまである。
「死をつかさどる魔王、でしたか。……奇遇と言っていいのかしら。私は裁定の魔なる神、アルシエルを名乗る地獄の大王……。まずは、ご挨拶を」
雅なしぐさで礼節を示しつつ、彼女はほんの数歩で接敵可能な位置までたどり着いた。その腕には、大きな槌が握られている。
同時に、物陰にいた
飛鷹 シンが動き、その手、すべての指に収まった指輪から細い糸を放出した。それはヴェイロンの腕に絡み、その動きを抑え込む。
だが、遠きユグドラシルと呼ばれる世界において振り絞られた潜在能力では、ローランドにおいて魔王を上回ることはできない。
ゆえに糸が魔王を抑制できたのはほんのわずかな時間、振り払われるまでの一瞬の間だけだった。
それでも、その一瞬はたまにとっては大きな隙だ。彼女は大きく腕を振り上げ、握った槌に魔力と渾身の力を注ぎ込む。
「――神、か」
そこでヴェイロンが口を開いた。その声に感情らしき色はない。
「その虚飾がこの地においてかなうものと、考えているのか」
たまが槌を振り下ろすより先に、糸を振り払ったヴェイロンの青くくすんだ手が彼女の腕にただ触れた。とたん、ぴ、とその美しい白肌に小さな傷がつく。
それ自体は爪が引っかかったような小さな、他愛のない傷だ。だが、一気に血の気がひいていくような、奇妙な感覚を伴った。
いつか経験した死の淵。あれがまた、忍び寄ってきたかのような気にさえさせられる。
そうして自身を高めたはずの異世界の力――妖力が、いつの間にか霧散していることに気付く。
「……っ」
ゆえに、たまは即座に後方へと跳躍した。その知性が彼女に愚直なふるまいを許さず、自身を危険から遠ざけたのだ。
いま、一体なにが起こったのか。
叉沙羅儀 ユウは拭えない疑問と不安を胸に術式を展開し、不可視の聖壁をはりなおした。
呪いには十分な対策を施していたはずだ。だからこそ彼女……たまは、死の波動を受けたその直後に動くことができたのだ。
なのに、ただ一度直接触れられた、たったそれだけで彼女があそこまで防戦に傾くなんて。正直に言えば、ユウにとってはすぐに飲み込める状況ではなかった。
「出るわ」
聖壁を受けたことを確認した直後、
イリヤ・クワトミリスが短い合図とともに前に出た。
(……おそらく、私の存在は無視される)
この日、イリヤはひどく冷静だった。
(当然よね。明らかに大きくて強そうな人が、こんなに近くにいるんだもの)
ヴェイロンにすれば害虫にたかられるようなものだろう。刺されたところで痒いだけの蚊と猛毒を持った蜂。どちらを先に駆除するかなど考えるまでもない。
(なら)
後方へ跳躍するたまと、それを追うように滑空するヴェイロン、そのわずかな間に滑り込むようにイリヤは体をねじ込んだ。
「っ!」
直後、ヴェイロンの手がイリヤの顎を打った。ずり、と引きずられるような感覚と共に彼女の愛らしい顔に傷がつく。
同時に、否応のない脱力感に苛まれて、頭の芯がぼうっと痺れ、ぐらりと世界が揺れた気がした。
けれど、耐える。絶対にここで倒れるわけにはいかないと歯を食いしばって。
(私は、私の大切な人と仲間を守り通す。……それだけは成して見せるわ。絶対!)
「イリヤさんっ!」
ユウによってヒーリングブレスが施され、頬に感じた痛みはすぐに緩和された。
――そう。呪いに対して備えた対策は、やはり有益に働いてはいるのだ。その事実がユウとイリヤ、それぞれを強く勇気づけた。
「やらせるかよ!」
そこにシンが、今度は全身で組み付くように飛びかかる。ヴェイロンの肩を掴み、引きずり下ろすつもりで全体重をかけた。
触れた瞬間、強い虚脱感に襲われるが、意思の力でそれに耐えて必死に食らいつく。
さらに
サキス・クレアシオンが、シンの後を追うように跳躍して、同じ軌道で上から下へとその剣を叩き込んだ。
鋭く息を吸い、鋭く吐く。その繰り返しが彼女の血をたぎらせ、彼女の身体能力を跳ね上げた。
突如行われた二人がかりの攻撃はヴェイロンの目にどのようにうつったのか。躯に覆われた静かな瞳からそれを読み取ることはできない。
ただ、そのまま床にたたきつけられるような相手であるはずはなく、ヴェイロンは床につくより早くその身を翻し、逆に二人に触れようと手を伸ばした。
「おっと、それ以上はさせませんよっ!」
示翠 風は構えた弓に、鋭い風を伴う矢を番えた。
このまま仲間にとどめなど刺されてはたまらない。離れた場所にこそ危険はあるのだと示すため、容赦なく人体の急所――心臓の位置を狙う。
(まあ、内臓なんてものがまともにあるのか知りませんけど……)
幸い、鎧に包まれていた先刻までと違い、そのくすんだ青い肌はいま、無防備にさらされている。狙いをつけるのは難しいことではなかった。
「ふむ、これは好機か」
呟きと共に、火柱にも似た激しい闘気が老人の全身から放出される。
垂が気付いたときには、フィリップは駆け出していた。その速度に、思わず舌を巻く。
フィリップは風を伴う矢にあわせ、ヴェイロンの懐めがけて容赦なく拳を叩き込む。
けれどヴェイロンの反応も早かった。彼はわずかに身をひねることでそれらをあっさり回避する。
結局、直接拳は届かず、闘気だけがヴェイロンの肌をかすめることになった。
伝説の冒険者といえどこんなものかと落胆しかける垂だが、すぐにヴェイロンの肌に変化を見つけて息を飲んだ。
その腹に、拳大の火傷のような跡が残されているのだ。
たった一度かすめただけでこれだけの傷を残すとは、あの闘気そのものにどれほどの加護があるというのだろう。
(これが、白銀の力……)
強さへの憧憬と嫉妬。複雑な思いが垂の胸に去来する。
だが、考えているような余裕はない。彼女はフィリップの攻撃直後に生まれる隙を埋めるべく、自らフィリップをかばうように踏み込んだ。
ほぼ同時、ヴェイロンが広げた手をフィリップの顔に向けて伸ばす。そこに黒い炎のようなものが見えた気がした。
「させるかっ!」
垂はその手のひらを受け止めるように両腕を突き出す。そのまま円を描くように動かして攻撃を受け止める。
「ぐ……っ」
覚悟していたことだが、ただ触れただけで体内に衝撃が走り、強い脱力感に見舞われる。けれどそれで頽れるわけにはいかないと全身に力を込めた。
限界などとっくに超えている。
もはやこれは意地だ。こんなことでくたばる自分は、理想の先にいないのだ。
「――よくぞ耐えた」
フィリップの声がして、横から彼の拳が再び突き出されるのが見えた。一度は回避されたそれが、今度は見事ヴェイロンの胸を叩く。
その一撃は強い衝撃をヴェイロンに与えたのだろう。ぎしりと、青くひずんだ体がきしむように揺れたのが見えた。
モンクたちが接近戦を仕掛ける中、その背後少し離れた位置に忍び寄った女性がいた。
ビーシャ・ウォルコットだ。
(伝説の冒険者フィリップ。この人もまた、選ばれた人……)
時に、戦場においてほんの一部の選ばれた者のみがその力を発揮し、勝敗を決する――そんな未来を予想して胸をかき乱されることがある。
今もそうだ。死の理をつかさどる魔王ヴェイロン。こんな圧倒的な力を前に、一介のローグたる自分になにができるのか。ここにたどり着くまでに何度そんな疑問が胸をよぎったことだろう。
(できることはあるわ。あるのよ)
ビーシャは素早く、確実にモンクたちにかぶるように位置取りした。
その指につけた指輪からするすると糸を伸ばす。
――力ではかなわない。だから、これひとつで拘束できるとも思ってない。
角、爪の先、腰に下がる髑髏――どこでもいい。どこかにひっかり、ほんの一瞬でも煩わしく思ってもらえれば――。
彼女の意識は実際のところ、背中の向こう、後方に控える仲間たちの元にある。
彼、彼女たちなら、きっと『わたしにできること』を結果に繋げてくれる。その信頼をもって、彼女にできる全力で糸を引いた。
ビーシャが撒き、引いた糸。それはフィリップの拳の攻撃と見事重なり、痙攣するようにわずかに震えたヴェイロンの腕に絡み、引いて、その瞬間ヴェイロンのバランスを崩させた。
そうしてそれは、光をまとった銃弾を命中させる、最初のきっかけとなる。
(今……!)
レベッカ・ベーレンドルフがライトフィールドマークⅡの引鉄をひいたのは、ビーシャが糸を引きつけた瞬間だった。
この銃は装填した銃弾に光をまとわせ、輝神の加護をもって標的に突く力をもつ。装填したのが特殊な――例えばこのナムバレットでも、同じ光の効果を付与できる。
市街地の教会と城内の大聖堂。二つの守護結界が起動している以上、光は魔王にとって鋭い痛みとなるはずだ。
ビーシャがくれた一瞬の隙に助けられ、見事レベッカは銃弾をヴェイロンの肩に命中させる。その衝撃に、青い背中が僅かに逸れた。
続いて引鉄をひいたのは、
シスカ・ティルヘイムだ。
(勇者が魔王を倒したことで、世界は平和になる……そんな戦いではないことは理解しています。……なのに、尊き貴方に弓引くことをお許しください)
静かな眼差しで見据え、撃ち放たれた光の銃弾。それはレベッカが撃ち抜いた場所からほんの少しずれた位置に着弾する。
(伝統を守り滅び往くよりも、変化を受容し新しい未来を。真の平和のためには、人も魔も、変わらねばなりません)
だから、躊躇などしない。
命中を確認した直後、シスカは素早くリロードしてもう一度照準を絞り、引鉄をひいた。
――けれど。
キィン!
甲高い音とともに、その銃弾は弾かれた。
その瞬間、ヴェイロンが行ったことはわずかに腕を横になぐように振っただけだ。
その動きにあわせて黒く薄い刃のような衝撃波が放たれて、それが銃弾を弾いたのだ。
「……いつまでもその些末な攻撃で、我を追い込めるとは思わないことだ」
響く低い声。そこに、これまで見せなかった強い感情が込められているように聞こえた。
(それでやめると思ったら大間違いよ!)
怒りの声に臆することなく、
フィーリアス・ロードアルゼリアは引鉄をひいた。
けれどそれもまた、同じように衝撃波によって弾かれてしまう。
(まだまだ……!)
ライトフィールドマークⅡがもつ連射性能を用いて、さらに銃弾を射出しようとする。
――その、瞬間だった。
「え、なに……」
覗き込む照準器の向こうで、ヴェイロンの内側から黒のオーラ――闇を思わせる魔力が立ち昇るのが見えた。
(これって……)
それは瞬く間に球状に広がり、ヴェイロンの姿を闇の向こうに覆い隠す。
さらに次の瞬間、闇の表面を滑るように鋭い衝撃波が放たれた。
「――くっ!」
ヴェイロンに対し接近戦をしかけていた垂たちは、回避のため大きく後方へ跳躍する。
回避された衝撃波はそのまま玉座の間を薙いで、床を断ち、壁を割き、そこにある装飾をことごとく吹き飛ばした。
(なんて力……)
本能的な恐怖から逃れるように、彼女は銃を構えたまま後方へ下がる。
その間に同じ衝撃波が再び、それも全く違う方向へ撃ちだされた。
さらにそれは繰り返され、短い間隔で次から次へ、四方八方様々に撃ち放たれていく。
(い、いい加減に!)
フィーリアスはもう一度引鉄を引く。しかし衝撃波はやはり光と銃弾、双方と打ち合う力を持つらしく、パン、と硬質な音と共に弾かれてしまった。
「な……」
引鉄にかけた指が引きつってしまう。
照準器の向こう側は、完全に闇に覆われていた。