平和とは何ですか。
安穏とは何ですか。
答えられない時ほど、人はきっと幸せなのです。
そして、当たり前すぎて、それらを失うことを想像出来なくなった時、人はそれらを守る術をも忘れてしまうのでしょう……。
大和小世界・
出羽(でわ)。
ある夜、空に浮かぶ満月の背後から全く同じ形の黒い月のようなものが現れました。
それが破滅の始まりだとすぐに気付いた者は、出羽の統治者である「
天鳥(てんちょう)」
滋姫(しげひめ)と彼女の側近たち、そして高い霊力を有するごく一部の者たちだけでした。
黒い月からおびただしい数の禍々しい者たちが地上に降り立ち、それらは瞬く間に民の家を襲い、民を殺し食らい、田畑を踏み荒らします。
「
影月(かげつき)だ……まさか、『かの者』が復活したというのか」
滋姫は空を見上げ、黒い月を睨みました。
「あれが、いにしえの伝承にある影月……このままでは民が! 天鳥様、急ぎ討伐して参ります!」
「待て、荒瀬!」
御殿を飛び出そうとする側近・
荒瀬 雅仁(あらせ まさひと)を滋姫が毅然とした声で呼び止めます。
「ここでいくら討てども影月を閉じねば終わらぬ。終わらねばこの地は滅ぶのみ。荒瀬、今より其方を
征影大将軍(せいえいたいしょうぐん)に任じ、地上の一切を託す。妾は――影月を閉じに行く」
それを聞いた雅仁の顔色が一気に青ざめました。
「
孔雀夜叉(くじゃくやしゃ)の伝承に倣うと仰るのですか!? 某は承服致しかねます!」
「黙れ!! ……あれを止めるは天鳥たる妾の使命。いにしえの大乱より後、代々の天鳥が負いし役目だ。ただそれが千年余りの間求められず、今この時に必要になっただけのこと。しかし、妾の力で抑えられなんだ時は……妾に代わり、其方が出羽の地を、民を、あの者どもから守るのだ。良いな」
雅仁に悲しいほどの穏やかな微笑を見せると、滋姫は己の力の全てを解放します。
「荒瀬、妾は其方に出会えて本当に良かった。出羽を……頼んだぞ」
「天鳥様っ!!」
眩く荘厳な金色の翼を生やした滋姫は、ひとり影月へと全速力で飛び込んでいきました。
直後、影月はみるみるうちに元の月の後ろに重なり始めます。
しかし、あと少しで完全に重なるというところで、ぴたりと動きを止めてしまいました。
元の月に重ならなかった三日月のような黒い部分から、ぽつぽつと、しかし次々と禍々しい者たちは降りてきます。
「そんな……天鳥様の力でさえも完全に封じることが出来ないなど……」
後を託された雅仁は影月の想定以上の力に衝撃を受けながらも、刀を手に外に駆け出しました……。
* * *
皆さんが足を踏み入れたそこは、まさに「地獄」でした。
転がる死体、泣き叫ぶ幼子、うずくまって呻く人々。
無残に破壊された家々、踏み荒らされた田畑……。
突如として破滅への激流に呑まれようとしているこの小世界は、存続のため一刻も早い特異者の介入が必要だと判断され、ゲートが開かれました。
「さあ、急ぎましょう! こうしている間にも戦う術を持たない民たちが犠牲になっているんですっ」
この小世界に到着するなり、忍装束の特異者・
お駒が皆さんを先導します。
「ええと、歩きながら説明しますね! 私、千国で見つかった小世界『亜羽和瑳』では『最上駒子』っていう英傑名で傾城やってたんですけど……って、あの頃はろくに皆さんの役に立てなかったのでその話はここまでで。私、ここでは忍者の『お駒』として動いてます。ここは『出羽』という国なんですけど、緊急的にゲートが開いたのでとりあえず先行調査ってことで飛び込んだら市中は既にこの状態で……」
彼方に連なる山脈、無舗装の道、広がる田畑、茅葺きの民家……と、大和の小世界だけあってここは古き良き昔の日本を思い出させるような光景ですが、思わず目を背けたくなる程の惨状が皆さんの眼前には広がっていました。
それはまるで大きな戦の直後のような、いいえ、一方的且つ圧倒的な侵略と殺戮を何の前ぶれもなく受けた直後に見えます。
「……なので私も正直何から調べていいか戸惑ったんですけど、ゲートをくぐってすぐに運良く現在この国のトップにいる人に遭遇しまして。あ、安心して下さい、その人は特異者のことを『
渡来人』って呼んでて、人の道に背くような言動をしない限りは友好的です。まぁ、こんな悲惨な現場なので今はどんなに胡散臭い人でも戦力になるなら贅沢は言えないってことなのかもしれませんけど……」
お駒の早口な説明を聞きながら進むと、前方に木造の大きな御殿が見えてきました。
御殿の前には男性が二人、何人もの武士らしき人たちに矢継ぎ早に指示を出しているように見えます。
「背の高い方の男性がこの国の現在のトップ・『征影大将軍』と呼ばれている荒瀬雅仁様で、その隣にいるちょっと軽そうな人が荒瀬様の側近の
小平 春之進(こだいら はるのしん)さんです」
お駒は皆さんに簡単に説明すると、武士たちが散開したところで雅仁に声を掛けます。
「荒瀬様!」
「お駒……その者たちは?」
雅仁は警戒心を露わにしながら皆さんを見つめますが、お駒が皆さんを「渡来人である」と説明すると、軽く会釈をしました。
「お駒と同じ渡来人であったか。某の無礼、何卒容赦を。某は荒瀬雅仁、この者は――」
「どうもー、マサのダチで小平春之進だよ。春ちゃんとか、春っちとか、まぁ好きに呼んで。悪いねぇ、こいつ赤子の頃からこんなしかめっ面なもんで」
雅仁の紹介をぶった切り彼の表情をからかいながら張り切って自己紹介する春之進に曖昧な笑みを返したお駒は、皆さんに耳打ちします。
「ね? 軽いでしょ? でも、能ある鷹は……なんて言いますよね。そういうタイプの人みたいですから、とりあえず安心して下さい。あんな調子ですけど、初対面なら恐らく荒瀬様より春之進さんの方がだいぶ接しやすいかもしれません。私もそうでしたから」
皆さんが成程と頷きながら雅仁と春之進を交互に見ていると……。
「荒瀬様、荒瀬様!」
数人の民が悲愴な面持ちで駆けてきました。
彼らはその格好から恐らく農民だろうと思われますが、ひどく薄汚れた身なりをしており、身分の高い者に目通り出来る立場には到底見えません。
しかし、雅仁は眉一つしかめることなく彼らに向き合います。
「如何した」
雅仁が問うと、農民たちは平伏しながら口々に訴え始めました。
「前川様が、俺らに蔵米を分けてくれやせん!」
「荒瀬様のご命令で、此度の災いを乗り切るために蔵米の一割を武士団様に、四割を集落の民に放出すると聞きましたが、前川様はちっともよこしてくれやせん」
「隣の岡島集落や大島集落の者は荒瀬様のご命令で蔵米を出してもらえたと聞くのに、前川様だけは出してくれんのです」
これを聞いて、雅仁の眉間に深い皺が刻まれます。
「前川は其方らに何と申しておる?」
「祠の修理に必要な金を工面するために蔵米を使ったからそんなに余裕はないだの、田畑を持たぬ民たちに配る分がなくなるだのと……確かに去年、五穀豊穣の神様を祀っている祠を直しとりましたが、そんなに金がかかるとは一言も……」
「『田畑があるお前たちは年貢をちょろまかして懐に隠しておるではないか、されど政を行う者たちや商人、職人らは田畑を持たぬゆえ米が一粒も自由にならん。その者たちを哀れとは思わんのか』と」
「俺らはこれまでただの一度も年貢をちょろまかしたことなどございやせん!」
ここまで聞くといよいよ雅仁の口から舌打ちまで飛び出しました。
「チッ、二郎左衛門の野郎……一発ぶん殴ってやらねぇと分からねぇか」
「こらこらマサ、大将軍様がそんな汚い口きかないの。とにかく、前川氏んとこにお前が乗り込むと後々余計拗れそうだから、この案件は俺と……渡来人のみんなに任せてよ。ね、いいよね?」
春之進は人懐っこい笑みで皆さんに協力を求めます。
「もちろんですっ。でも春之進さん、皆さんつい今しがた出羽に来たばかりでまだ状況を飲み込めてないと思います。私も、この国がどうしてこんな酷いことになっちゃったのか詳しくは分かってないですし……なので、何人かは状況把握に専従させてもらえませんか?」
お駒が春之進からの要請を受け入れながらもそう提案すると、彼はうんうんと大きく頷きました。
「それもそうだね。なら、百聞は一見にしかず、実際に集落に出て動いてみてくれるかい? 君たちの存在を民に知ってもらういい機会だし、何より君たちの力が『奴ら』にどこまで通用するかを君たち自身が知っておかないと今後危険だろうしね」
雅仁も山岳の方角を指しながら皆さんを誘います。
「見ての通りの有様ゆえ何のもてなしも出来ず心苦しいが、この国のことを深く知りたければ某とともに来るといい。この国の『今』ならば某の口からいくらでも語れるが、この国のいにしえについては語るに相応しい者がいる。そこに案内しよう」
三手に分かれて行動を始める皆さんに、お駒が思い出したように秘かに告げます。
「あっ、大事なことを言い忘れてました! この小世界では魔物みたいなものが人々を襲ってて、私たちはそういう奴らと戦わなきゃいけないんですけど、皆さんの力はかなり……かーなーり制限されてしまうと思います。私も、鎖鎌を使おうとしたら重くて全然振れなくて、しかも気配を絶って物陰に隠れてた筈なのにあり得ないくらいあっさり見つかったりで……手裏剣や吹き矢は問題なく使えたんですけどね。どうも、一定以上の力を持つ装備はまるで使えないみたいなんです。なので、持ち物や使う技にはくれぐれも注意して下さいねっ」