きょうは皆さんにお願いがあってきました。どうか、僕の願いを叶えてはもらえないでしょうか。
僕は貧しい漁村の生まれです。村人の大半が漁師で、舟で沖へ出ます。舟は1人か2人乗りです。僕の家は舟を持っていないので、村長に舟を借りて漁をします。日に3度海へ出るのですが、夜明けから海へ出て、夕方まで海の上で過ごして魚を捕ります。しかしそうしても袋一杯に魚が捕れる日は年に数度で、普段は捕れた魚を市場へ売りに行くことでその日は夕餉にありつけますが、捕れなければ空腹のまま朝を待ち、海へ出るしかない、ということもよくあります。
これは僕に限ったことではなく、両親のときも、そのまた両親のときもこうだったそうです。きっと、僕に子どもができて、その子が漁師になったときも、今と同じなのでしょう。
そんな貧しい日々の中、6人の弟妹を育てあげた祖父を、僕は大変尊敬しています。祖父が嵐で両親を亡くしたのは、今の僕と同じ17のときだったそうです。
嵐で時化が3日続き、このままでは子どもたちが飢えてしまうと思い詰めて海へ出た祖父の両親は、そのまま戻ってきませんでした。家は、7人の子どもを残して、働き手の両親と舟を同時に失ったのです。
祖父は網や舟の補修、荷運びの手伝いと、働いて働いて、自分のことはすべて後回しにして、嫁も取らず、5人の妹たち全員を嫁がせたそうです。僕の祖父は彼の末の弟で、厳密には僕は彼の孫ではないのですが、本当の祖父は僕が産まれる前に亡くなったこともあって、僕はずっと彼を「おじいちゃん」と呼んで、一緒に暮らしてきました。
祖父はもう年で、今では一日のほとんどを寝て過ごしています。数年前からぼけも始まっていて、よくつじつまの合わないおかしな事を言います。ふと何かの拍子に思い出したような顔をして口にし始めると、母などは「ああ、またあれが始まった」と苦笑するだけですが、僕はさまざまな妖たちが祖父を惑わすその不思議なおとぎ話を聞くことが子どもの頃から大好きでした。
数日前もそうでした。
今年の秋口からめっきり弱って、起き上がることも困難になった祖父に、介助しながら食事をさせていたときです。風に乗って、窓から祭り囃子がかすかに聞こえてきました。
豊漁の祭です。僕も、祖父の世話が終わったら手伝いに出ることになっています。もし具合が良いのであれば少し外に出てみないか、と祖父を誘おうとしたとき。祖父が突然例のおとぎ話を始めました。「わたしには、実は兄がいたのだよ」と。
それは、もう何度も聞いた話でした。祖父は本当は双子で、兄がいたのだと。
もちろんただの夢物語です。祖父に兄がいたなんて。祖父がこの話を始めると、僕の両親は手をさすって「あなたに兄はいませんよ」とさとします。そして祖父の弟妹たちも口を揃えて「わたしたちの兄はあなた1人だけです」と応えます。「かわいそうに。すっかりぼけてしまったね」と言われて、祖父は口をつぐむのでした。
しかしこのとき、そばにいたのは僕だけです。僕は、祖父が話したいだけしゃべらせようと、適当に相づちを打ちながら聞いていました。
――わたしには兄がいたのだよ。わたしと同じ歳なのに、ずっと利口で、優しくて。芋をもらうと2つに割って、大きいほうをわたしにくれた。いつもそうだった。いつもそばにいて、いたらないわたしの世話を焼いて、わたしが何か失敗をすると、わたしの代わりに叱られたり、一緒に罰を受けてくれたりした。どんなときもそうだった。一度、泣きながら「なぜ?」と尋ねたことがある。そうすると彼は、足元に落ちていた口縄
(くちなわ)を拾い上げて教えてくれた。わたしたちはこの1本の縄のようなものだと。2つの紐が別ちがたくきつく撚り合って1つになっている。わたしたちも別ちがたき1つなのだ。だからだよ、と。
10歳のとき。祖父は夕方の風に乗って聞こえてくる祭りの笛の音に導かれるようにして山を登り、不思議な祭りにたどり着きました。そこは妖たちの夜祭りで、「この提灯を持てば人間も参加することができるよ」とおばあさんの案内人に言われて、2人は提灯を手に屋台を見て回ったそうです。
屋台には、どう使うかわからない物、不気味な物、おいしそうな物、いろいろな物があって、それまで見た事のない品々に、祖父はすっかり目を奪われたそうです。楽しくて楽しくて。夢のような場所だと、夢中になって見て回っていました。
そして祖父は、とある店でどうしても欲しい物を見付けてしまいました。それは人間の女の子でした。
――きみ、どうしてここに?
――わからない。妹たちと遊んでいたら、突然大きな鳥に帯をつかまれて。気がついたらここにいたの。
そこは人間の子どもを売る店でした。客が望めばその場で調理して出したり、持ち帰りにしたりしていました。奴隷として買われていく子もいました。
祖父は見かねて、その子を連れて逃げました。兄は祖父が連れてきた女の子に驚きましたが、事情を聞いて一緒に逃げてくれました。けれどもなぜか赤い鳥居から先に行こうとするとするりと中へ戻ってしまって、どうしても外へ出られなかったそうです。
やがて妖たちに取り囲まれた祖父たちは、案内人のおばあさんに言われました。
――どこへも行けないよ。あんたは祭りのきまりを破って、ひとの物を盗んだ。その罰を受けなくちゃならない。
――おばあさん、どうかわたしたちを帰してください。お願いします。ここの事はお役人さんに言ったりしません。絶対に誰にも話しませんから。
祖父たちは震えながら必死にお願いをしましたが、おばあさんはがんとして聞き入れてくれず、怒った妖たちは今にも自分たちを頭からばりばりと食べてしまいそうでした。
そこは楽しい場所ではなく、おそろしい場所に変わっていました。いいえ、祖父が気付かなかっただけで、本当は最初からおそろしい場所だったのです。
――あんたたちはその子を盗んだ。ここのきまりは等価交換だからね、あんたたちのどちらかがここに残らなきゃいけない。
――こ、ここに、ですか?
――その子の代わりに、こいつの店で売られるんだよ。
――オ、オマエ、煮テ、食ッテヤル!
盗まれた店の妖は大変腹を立てていて、残ったほうを食うと宣言していました。祖父は、自分たちから漂うにおいで舌なめずりをする妖の真っ赤な口が怖くて怖くて、ぎゅっと目をつぶって女の子と抱き合っていたそうです。
――ぼ……、僕が、残ります。
答えたのは兄でした。
――あんたが?
――僕たちは、くちなわです。お、弟がした事は、僕のした事です。そ、それに……、僕は、お、おにいちゃん、だから……。兄は、弟を守るんです。……そうでしょう?
案内人のおばあさんは、ニィっと笑うと、「これで取引成立だ!」と大声で宣言しました。するとびゅうっと風が吹いて、真っ暗闇になって、気がつけば祖父は女の子と一緒に山の中にいたそうです。たいまつの火が下から上がってきていて、口々に祖父の名前を呼んでいました。
両親や村のみんなが夜になっても戻ってこない祖父を捜してくれていたのでした。
祖父は急いで彼らの元へ行き、妖の夜祭りで起きたことを話し、兄を助けてと訴えましたが、両親も村の者もとまどったような、奇妙な顔で言いました。
――何を言ってるの? おまえは一人っ子だろう?
と……。
それから兄がいたといくら言っても、誰も信じてくれませんでした。家にあった兄の物は全て祖父の物だと言い、『兄』がいたことを覚えている者は誰もおらず、祖父の言葉に両親も「夜の山の中で、よほど怖い思いをしたんだろう。これにこりて、二度と夜遊びしてはいけないよ」と言うだけでした。
そのうち、祖父は兄のことを口にするのをやめてしまいました。
――忘れたわけではないよ。誰が忘れても、それはわたしの空想だと言われても、「だから弟たちは帰してください」と自分たちをかばって立つ兄の姿を、わたしは何があっても忘れないと胸に刻んだ。声も、背中も、足も、がたがた震えていた。たった10歳の少年が、たくさんの妖たちを前にどんなに怖かったろう。わたしには到底まねできない。
祖父は、それから何十回も、何百回も、夕方になるたび風に耳をすませてきました。けれど山から祭り囃子の音色が聞こえてくる日は、とうとうありませんでした。
そうしてほとんど寝たきりになった今も、耳をすまし続けているのでしょう。
祖父は、きっと兄がどうなったのか、知りたいのだと思います。そしてもしも――あのおばあさんの案内人は、賢い兄を気に入っていたように見えたそうなので――本当に万分の1かもしれませんが、彼が生きているのなら。今度こそ連れ戻したいと、何十年も考え続けて生きてきたのではないでしょうか。
祖父が言うには、きっと自分はあそこのきまりを破ったから、二度と招いてはもらえなくなったのだろう、ということでした。そしてそれは僕にもあてはまるようです。最初から呼ばれる資格がないのか、それとも祖父の血縁だからかはわかりませんが、残念ながら僕にも妖の夜祭りへ導いてくれるという祭り囃子は聞こえてきません。
「――僕は、もう長くない祖父の願いを叶えてあげたい、もし生きているのなら兄に会わせてあげたいと思うのです。
どうかお願いします。僕の代わりに妖の夜祭りへ行って、祖父の兄があの後どうなったか調べてきてはもらえませんか」
少年は話を終えたあと、畳に手をついて静かに頭を下げました。
※ ※ ※
ざあざあと、強い風が吹いていました。
本来ならば外の天気がどうであろうとも、赤い鳥居の内側は常に快適であるはずなのに、今は違っています。
現・案内人の青年は、風にあおられながら社のある山を見上げました。そこでは今、年を経た妖たちが祭り囃子を奏でています。しかしうまくいっていないのは、この風が止まないことからも明白でした。
前回の夜祭りのとき、神社の神様がその身に大きな痛手を受けたからでしょう。
提灯売りによると、過去もこういうことがなかったわけではないということでした。神社の神様に敵意を持つ妖は、全くいないわけではないから。そしてそのたびに、長い年月をかけて神様は身を癒やしてきました。今回もそのつもりでここの山に来たのでしょう。
提灯売りは紙に書いて語ります。
――この山には温泉がある。そこで神社の神は、体についた銅の毒を洗い流すつもりだ。
提灯売りに、青年は「うまくいくといいね」と静かに返しました。
そうなったら、次は自分がおとがめを受ける番だ。今度の出来事は夜祭りの案内人としての自分の失態、過誤であるのは間違いなく、その責任を取らなくてはならないだろう、と。
「……今度こそ、妖たちに鍋で煮られてしまうかな?」
笑うときも、青年は静かでした。