ある町に、大江九兵衞という男がおりました。
代々続く反物問屋の主人で、敷地内に蔵を2戸前持つお金持ちでありました。
この九兵衞、大層な働き者で知られており、若いころから一心不乱に家業に精を出し、朝起きてから寝るまで、考えることといえば店のことのみでありました。
そうして順調に店を大きくし、跡継ぎ息子にも恵まれて。ふと気付けば九兵衞は、還暦の祝いを受ける歳になっていました。
店は息子や孫に任せて隠居したは良いのですが、さて、残りの人生をどう過ごしたらよいものか。
これまで商いのことしかしてこなかったものですから、それ以外の何かと言われても、さっぱり何も思いつきません。困った九兵衞に、隠居仲間のご老人が、骨董集めはどうかと提案し、1合の香炉をお渡しになりました。
――これは、良い物かといったら全然そうではないのだろうねえ。ほら、足のところを見てごらん。一度割れて直した跡があるだろう?
それが良い景色になる場合もあるのだけれど、これは駄目だ。おそらく素人か、下手な職人の手によるものだろう。またすぐに割れかねないというので、良い値はつかない。
だけどねえ、これは良い物だとわたしゃ思う。まるで話に聞くにあるという、
永遠の命を授ける非時香木実の薫香のような香煙じゃないか。この香煙を浴びていたなら、長生きできそうな気がしてくるだろう?
学のない九兵衞は非時香木実など初めて聞きましたし、薫香など嗅いだこともありません。ですが、ご老人が大切に大切に両手で抱えたこの香炉を、九兵衞もとても気に入ったものですから、礼を言って、ありがたく頂戴することにしました。
そして以後、九兵衞もご老人にならって骨董集めを趣味としてさまざまな品を買い求めるのですが、この香炉を一番のお気に入りの品として、よく手にとってはつくづくと眺めて過ごしておりました。
そして九兵衞が死した後も、しばらくの間は他の骨董たちと一緒に蔵の中にしまわれていたのです。
しかし凋落は世の常と申しましょうか。あるとき主人となった男が手のつけられない道楽者で、商いを全く気にかけず、いつまでも身を入れることをしなかったものですからまともな雇われ者は一人二人と消えていき、あとに残った者たちが主人の目を気にすることなく好き放題をした結果、大切な代々の顧客も離れていって、ついには店を閉めることとなってしまいました。
――なに、店はなくなっても、わたしにはこの蔵がある。中の品を売ればよいのだ。
男は何代か前の主人が集めたという骨董の詰まった蔵の錠前を開けて、あっと驚きました。前に見たときは蔵いっぱいにあった品のほとんどが失われていたからです。
手癖の悪い雇われ者が1つ2つと持ち出して、売りさばいていたのでしょう。残っていたのは二束三文にもならない偽物ばかりでした。
なんということか。男は大層腹を立て、残った物も全て棒でたたき壊し、蔵ごと屋敷を売り払ってどこかへ行ってしまいました。
※ ※ ※
それから、さらに数年がたって。
かすかに聞こえてくる祭り囃子の笛と太鼓の音に揺り起こされるように、少女は目を開きました。
――ここはどこ?
蔵の小さな窓から覗く空を見上げながら、少女はぽろり、涙をこぼします。
――きゅうべえ。
会いたい、帰りたい、との念が胸をきゅうっと締めつけます。望郷の念に押されるように立ち上がろうとしたときです。ピシッと小さな音が聞こえて下を見ると、なんということでしょう、少女は棚の一番下に置かれた香炉の一部が割れていることに気付きました。
元から入っていた傷に沿って走った新たな亀裂から、ばらばらと欠片がこぼれます。
――これはあたしだ。
少女は直感でそう思うと、あわてて香炉を抱き上げました。
――どうしよう、どうしよう、どうしよう。
動揺する少女の耳に、蔵の戸口からガチャガチャと、鉄の錠前を開けようとする音が聞こえてきます。
少女は香炉を抱く手に力を込めて、重い戸が開かれた瞬間、ぱっと飛び出しました。
きゃあ、と後ろで驚く人の声がしましたが、少女は足を止めることなく、ひたすら走ったのでした。
夢中で走って走って。ようやく足を止めた先。
はあはあと息を整える少女の足元で、ぱらぱらと欠片がこぼれていきます。見れば、走ってきた道に沿って、ぱらぱらと欠片はこぼれていました。
――ああ、どうしよう……。
怖くて怖くて。でも、どうすればいいか、どこへ行けばいいかもわかりません。
――きゅうべえ……あたし、怖いよう……!
ぎゅうっと胸の香炉を抱き締めたとき。ヒヒヒッという嗤い声が聞こえてきました。声を追って振り向くと、木の陰、茂みの中で1対の目が光っていました。
――あなた……。
――何もしないから、怖がらなくてもよいよ、お嬢ちゃん。
ガサガサと草をかきわけて出てきたのは、腰の曲がった老人でした。
九兵衞よりもっともっと年寄りで、しわくちゃの顔がまるでサルのようなその老人は、おびえる少女に猫なで声でこう言います。
――そうおびえなくともいいよ、
付喪神のお嬢ちゃん。わたしはおまえさんが気付く前からここにいた。害する気があるなら、とっくにそうしていたさ。
その声はとても優しく聞こえました。あれほど怖かった目も、日の下で見ればなんということもなく見えます。
――あたしは、ツクモガミっていうの?
――そうさ。ながーーーい年月を経た物が転化して生まれる妖だ。かく言うわたしも妖でね。お嬢ちゃんのお仲間だよ。
――仲間……。
――そう。だから安心をし。
しかしお嬢ちゃん、生まれたばかりなのに残念だねえ。おまえさん、長くはないよ。傷物だからね。
――え?
――ほら、足をごらん。割れているだろう?
老人の指した指を追って、少女は自分の足を見ました。すると、確かに右足の一部が香炉の足と同じように欠けています。
――これからどんどん広がってゆくよ。傷物とはそういうものさ。そしておまえさんも同じように割れて、そのうち砕けてしまうのさ。なんたって、同じものなんだからね。
ヒヒヒッと、またもや老人は嗤いました。
少女は今聞いたばかりのことに大層驚き、おびえます。
――あたし、もうすぐ死ぬの? いやよ。そんなのいや。だって――
そのとき、昔聞いた覚えのある言葉が頭の中でひらめきました。
――ときじくの、かぐの……このみ。
――おや? 知っているのかい。なら話は早い。
わたしはとーっても心の優しい妖だからね、お嬢ちゃんが助かる唯一の方法を教えてあげよう。
話す間、少しずつ距離を詰めていた老人は、今では少女に覆いかぶさらんばかりになっていました。
見開かれた目はまばたきもせず。ギラギラと照って、生まれたばかりの無垢な妖の少女を見下ろしています。
そうしてサルの妖の老人は、少女に不思議な妖の夜祭りについて話しました。
――願い事が何でも叶う、神社のお祭り……?
――そうさあ。その神社の神様は、ながーーいながーーーーい、お嬢ちゃんの気が遠くなるくらい長い時間を生きているんだ。そんな神様ならきっと、非時香木実のある場所を知っているに違いない。とっても優しい神様だからねえ、お嬢ちゃんが頼めば、必ず教えてくれるに違いないさあ。
希望が見えたことに、少女はすっと胸が楽になりました。
――ご親切に、どうもありがとう、優しいおじいさん。あたし、その夜祭りへ行って神社の神様にお願いしてみるわ。
でも、どうしてそんなに親切にしてくださるの?
――なに、かえりたての雛鳥がすぐに散るのを見るのは忍びない、というのもあるけれどね。お嬢ちゃんに頼まれてほしいことがあるんだ。なにしろこの老体だからね、神様の霊威を浴びるには、ちょいと歳を取りすぎたのさ。だからお嬢ちゃんに、託したいんだよ、これをね。
そうして少女はサルの妖からある物を受け取ると、祭り囃子のする方角へ向かって再び走り出しました。
行き先もわからず、ただおびえていた先までと違って、その足取りは軽やかです。
少女の後ろ姿を見守って、サルの妖はたまらず、ヒヒヒヒヒヒヒッと下卑た嗤いに肩を震わせたのでした。